イチロー祝福に集結した22万人超…グラウンドからの景色は「特別でした」 忘れられぬ一日【マイ・メジャー・ノート】

マリナーズ本拠地でイチロー氏の殿堂入り祝福イベント
マリナーズ球団は、イチロー氏(球団会長付特別補佐兼インストラクター)がアジア出身選手として初めて米国野球殿堂入りしたことを祝うイベント「イチロー殿堂入りウィークエンド」を開催し、5日(日本時間6日)から10日(同11日)までの期間中に本拠地T-モバイル・パークは熱気であふれた。
6日間の観客動員数は22万3835人。組まれていたのが勢いのないホワイトソックス(ア・リーグ中地区最下位)とレイズ(同リーグ東地区4位)との2カードだっただけに、改めてイチロー氏の絶大な人気が浮き彫りになった
イベント期間中は、2004年に年間262安打を放った際にイチロー氏が着用していたレプリカユニホームやクーパーズタウンのレプリカ表彰楯などのプレゼントが用意された。さらにクーパーズタウンの殿堂博物館に飾られたイチロー氏のレリーフが特別に同球場で一般公開され、写真撮影を希望するファンが長蛇の列をつくった。「永久欠番式典」に向けてイチロー祝福ムードは最高潮へと高まっていった。
9日(同10日)、レイズ戦を前にイチロー氏の「永久欠番セレモニー」が行われた。イチロー氏は大歓声に迎えられ、中堅フェンスの一部が開くと見事に刈られた「51」が浮き上がる芝生の上を歩きグラウンドへ。一礼するとマウンド方向へと歩を進める。ブルーのネクタイに紺のスーツ姿で、時折、声援に手を振りながら柔らかな笑顔も見せた。長年、苦楽をともにした弓子夫人と抱擁。イチロー氏と同じ「51」をつけたランディ・ジョンソン氏、ケン・グリフィー氏、エドガー・マルティネス氏らそうそうたるメンバーが顔をそろえた。
式典の翌日10日(同11日)、同球場で記者会見を行ったイチロー氏は盛大なセレモニーを感慨深げに振り返った。
「きのうの景色は特別でしたね。下からマウンドの球場の中心から満員になったスタンドを見る景色というのは特別なもので、ものすごい迫力でした。クーパーズタウンのときは僕が上(壇上)にいてファンの方はちょうど下に見える位置だったので、見え方、迫力は全然違うんですね。すべてマリナーズファンで埋め尽くされたスタンドの中に入れたことがすごく特別なことでした」
記者席から見ていると、大観衆で埋め尽くされた球場の鮮やかな芝の上を歩きマウンドへと近づいてくるイチロー氏の姿が、電車を待つ駅のプラットフォームで遠くに見える車両の先頭がだんだんと大きくなってくるというあの視点の推移と重なって胸が躍った。

マリナーズ復帰で語った思い「すべてをこのチームに捧げたい」
記憶から少しずつ遠ざかっていく7年前のことが鮮明に浮かんだ。
2012年の夏、イチローはトレードを求めマリナーズを出て行った。低迷が続き若手主体のチーム再建には自らの存在が「邪魔になる」と感じ苦渋の選択をした。名門ヤンキースに移籍すると2015年からはマーリンズでプレー。しかし、2017年オフに球団オーナーがチームを売却。悪化していた財政事情から球団が保有していたイチローの3年目オプションが破棄されるというまさに晴天の霹靂だったが、翌年の春を迎えても所属先が決まらないでいたイチローに声をかけたのが古巣マリナーズだった。
3月7日(同8日)の復帰会見でイチローは記録と戦ってきた過去の心情を「自分のことだけしか考えられなかった」と吐露したが、6年ぶりの復帰は「僕が培ってきたすべてをこのチームに捧げたい」の意識に着地した。
キャンプも半ばに差しかかった3月8日(同9日)にチームに合流すると、イチローは仲間より3週間もずれ込んだキャンプで調整に邁進した。しかし、右ふくらはぎの張りを訴えペースダウン。マイナーの試合では頭部に死球を受けるアクシデントに見舞われた。が、順調とはほど遠い状況ながらも開幕を翌日に控えた練習中に監督から直接メンバー入りを伝えられ「心が動いた」と明かした。そして、シアトルのファンが待ち焦がれた開幕戦を迎える。
3月29日(同30日)、イチローは「9番・左翼」で先発出場。4万7000人を超える大観衆のイチローコールがセーフコ・フィールド(現T-モバイル・パーク)に響き渡った。ただ、5月2日(同3日)のアスレチックス戦で2018年のプレーが終わってしまう。その翌日、イチローが選手登録から外れ「会長付特別補佐」になることが球団から発表されたのである。
イチローは記者会見でその経緯を話し始めた。
「この日が来るときは、僕はやめるときだと思っていました。その覚悟はありました。ただ、こういう提案がチームからあって(春に契約が)決まってから2か月弱ぐらいの時間でしたけれど、この時間は僕の18年の中で最も幸せな2か月であったと思います。その上で、この短い時間でしたけれど、監督をはじめ、チームメート、これは相性もありましたけれど、大好きなチームメートになりました。もちろん大好きなチームですし、このチームがこの形を望んでいるのであれば、それが一番の彼らの助けになるということであれば、喜んで受けようというのが経緯です」
そして、イチローは短い言葉を足した――「これが最後ではない、ということをお伝えする日」と現役続行の意志を明確に示した。その後、チームに帯同し全体練習で調整を続けるだけではなく、打撃投手をこなし若手選手には心情に寄り添うアドバイスを送った。古巣復帰会見で言った「僕が培ってきたすべてをこのチームに捧げたい」の意志は、“最も幸せな2カ月”でさらに強固になっていた。
2019年3月、マリナーズ球団は東京ドームでの日本開幕シリーズをイチローの引退試合という最高の花道として用意した。

背番号51を背負う覚悟「シアトルにとって特別な番号」
永久欠番セレモニーは4万5249人の大観衆が集まった。「What’s up Seattle?」(どう、元気? シアトル)の呼びかけで始まった13分の英語のスピーチでは、7月27日(同28日)の米国野球殿堂表彰式典と同様に、ユーモアを交えながらメジャー19年で13年半を過ごしたシアトルのファンと球団に深い謝意を表した。来年、自身の銅像が建てられることが球団オーナーから発表されると表情を引き締めたイチロー氏は、翌日の会見で「想像もしていなかった。51番を飾っていただいて、さらに銅像も。もう僕は死んだ後も安心だな、と思った」と笑いを誘った。
大いに盛り上がった「イチロー殿堂入りウィークエンド」は、最後、報道陣にも知らされていなかったエピローグを迎える。ユニホームに身を包んだイチロー氏が始球式でマリナーズの51番の“先輩”ランディ・ジョンソン氏とバッテリーを組むという劇的な結びがあった。ただ、これは背番号だけの物語ではない――。
マリナーズ移籍に際し「51」を背負うことが決まったイチロー氏は、他球団に移籍していたジョンソン氏に手紙を送り背番号を継承する覚悟を綴ったという。1月下旬の米国野球殿堂入り会見でイチロー氏は背番号「51」についてこう語っている。
「51番をつけて、選手がただの普通の選手だったらこれはランディ・ジョンソンに対して申し訳が立たないし、そういう覚悟がすごくありましたね。日本人選手、野手として初めてというのも大きな一つでしたけど、51番がシアトルにとって特別な番号ということもあって、僕の中ですごく重く存在していた。そういう記憶があります」
2018年の春、マリナーズに復帰したイチローは「この先はシアトルを離れたくない気持ちになる」という言葉を残している。回り道をした。いろいろな出来事が起きた。だが、すべてを乗り越えてイチローは戻って来た。
かつて経験した「最も幸せな2か月」は、永久欠番と偉大な投手に19年の想いを込めてボールを投じた“最も幸せな2日間”につながっていた。シアトルのファンの間で、シアトルの街で、「イチロー・スズキ」の名は「51」の記憶とともに未来永劫語り継がれていく。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)