スカウトから直前に「取れなくなった」 監督だけが知っていた…近藤一樹のドラフト“裏事情”

同一高校から4人のドラフト指名があった
今秋のドラフト会議に向け、プロ志望届の提出が始まった。史上最多タイとなる同一校4人の指名という快挙が生まれたのは2001年秋のドラフト会議だった。同年夏の甲子園、日大三で優勝投手となった近藤一樹さん(元ヤクルト)がポッドキャスト番組「Full-Count LAB」に出演。プロ野球選手の仲間入りを果たすという栄光の陰には、知られざるドラマが隠されていた。
日大三で優勝メンバーだった内田和也外野手(ヤクルト4位)、千葉英貴投手(横浜6位)、都築克幸内野手(中日7位)、そして近藤さん(近鉄7位)の4人が指名され、話題となった。近藤さんは「当時はSNSなどの情報が少なく、新聞から情報収集していました」と振り返る。グラウンドに現れるスカウトの姿を見て、選手間では「誰がドラフトされるのか」という噂が飛び交った。新聞にはドラフト候補として4人の名前が躍り、記者会見場には4つの椅子が用意されていた。
しかし、ドラフト当日に予期せぬ事態が発生する。近鉄が編成上の理由で、一度は指名予定だった近藤を取れなくなったというのだ。この連絡は小倉全由監督(当時)には届いていたが、近藤本人は知らされていなかった。「僕の記者会見場の席だけずっと空席なんですよ。いずれ呼ばれるだろうと思っていましたけど……」。
3人の同級生が先に指名され、会見場から姿を消していく中、近藤は1人、裏で待ち続けた。小倉監督は内心、覚悟を決めていたという。近藤はプロ志望を貫き、大学進学の道をすべて断っていた。当時のドラフトは現在より遅い時期に行われ、進路変更が困難だった。
「監督は僕が指名されないと思って、すごく心配していたようです」。ドラフトも終盤に差し掛かった頃、ようやく近藤の名前が呼ばれた。7巡目、大阪近鉄バファローズ。「呼ばれたみたいな、そういう感じでした」と、当時の心境を淡々と語る。
このドラフトでの体験は、近藤にとって最初の大きな試練だった。期待と不安が交錯する中で学んだのは、「何事も最後まで諦めない」という精神。後に数々の困難を乗り越える原動力となった、この教訓がここで培われたのかもしれない。