審判室に呼び出し→1年間の出場停止処分 「態度がアカン」元阪神左腕にまさかの試練

阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

元阪神の湯舟敏郎氏が大学で受けた出場停止処分

 阪神で開幕投手を2度務めた左腕・湯舟敏郎氏(野球評論家)は奈良産業大(現・奈良学園大)で2年(1986年)春頃から主戦投手になった。2年秋はチームの近畿学生リーグ1部昇格即優勝にも貢献。年々進化していったが、3年(1987年)春につまずく事態が……。突然、成績不振に陥ったわけではない。「審判に怒られまして……」。ストライク、ボールの判定などへのマウンド上の態度が問題視され、出場停止処分を受けてしまった。

 当時の奈良産大の強さは際立っていった。1984年に大学創立。湯舟氏が入学した1985年に硬式野球部は近畿野球連盟に加入して3部リーグからスタートし、1985年春・3部優勝、同年秋・2部優勝、1986年春・2部優勝、同年秋・1部優勝と、わずか2年でリーグの頂点に立ったのだからすさまじい。さらに、そこからも1部優勝が続き、湯舟氏の在学中も通り越して、1992年春までの12連覇も達成した。

 そんな奈良産大が初めて全国の舞台に飛び出していったのが、1987年6月の全日本大学野球選手権大会(神宮)だ。関西地区の第2代表として初出場を果たし、1回戦は東北福祉大に3-10で8回コールド負けに終わったが、湯舟氏はこの試合は登板していない。「ベンチには入れたんですけど、僕は出場停止期間中だったんです」。近畿学生リーグ1部で連覇を成し遂げた1987年春のリーグ戦途中にその処分を受けていた。

「リーグ戦の最終節で、優勝を争っていた大教大(大阪教育大)戦だったと思う。(審判の)ストライク、ボールの判定に対して不満げな顔をしたんでしょうね。まぁ、他にも何かあったと思いますけどね。覚えているのは『ウワーッ、クソーッ』みたいな感じでロジンをバーンってやったら、ちょうどスパイクに当たっちゃって、蹴ったような状態になって……。試合が終わって審判室に呼ばれて『そんな態度をしていたらアカン』と諭されるような感じで言われたんです」

 それを連盟サイドが問題視し、出場停止になったわけだが、大学時代の湯舟氏はマウンド上で喜怒哀楽を激しく出すタイプでは決してなかったという。「まぁ、いいように言えば、ここで大教大に勝たないと、っていうのがあったのと、ストライクに取ってほしいなっていうボールがあったので、うなっているような感じだったと思うんですけどね。出場停止は最初、1年間って言われたんじゃなかったかなぁ」。

 強すぎる奈良産大は何かと目をつけられていた、との噂もあったとか。「近畿リーグは文武両道的なところがあるのに、ウチは野球だけで集められたチームだったんでね。連盟からあまりいいように思われていないのでは、なんてことも言われていました。本当かどうかは知りませんけどね」と湯舟氏は言葉を選びながら説明した。

短くなった出場停止処分「いろんな方に動いてもらった」

 出場停止期間はその後、短くなった。少し処分が厳しすぎるとの声もあったそうで「マスコミの方もそうですけど、いろんな方に動いてもらって秋のシーズンから出られるようになったんです。本当は秋も出られないところでしたから」と湯舟氏は周囲の“援護”に感謝する。出場停止期間中にあった関西第2代表決定戦でチームメートが大経大(大阪経済大)を破り大学選手権初出場を決めたときは、自身が試合に出場できなくてもうれしかったという。

「大経大には延長19回で勝ったんですよ。日程の問題があったんですかね。決着つくまで、みたいな感じになって、みんなが頑張ってくれました。僕は(出場停止でチームに)迷惑をかけた。皆さんのおかげで(神宮に)連れていっていただきました。ベンチには入れましたしね」。何とも想定外の一件だったかもしれないが、出場停止処分を受けて、自身としても態度面など考える部分があったのだろう。その後は審判に注意されることはなかったそうだ。

「あの時『ちゃんとしなさい』って僕を怒った審判の方も、すごくいい人でね。大学を出てからは仲良くなったんですよ」と湯舟氏は笑みを浮かべながら話す。そんな時期も乗り越えて、奈良産大のエースとして奮投を続けた。大学4年となる翌1988年も全日本大学選手権に2年連続出場。今度は湯舟氏も先発登板し、奈良産大に大会初勝利をもたらし、さらには日米大学野球の日本代表にも……。大学から本格的に投手となった左腕は、まさに一歩一歩前進していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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