中日外野手が激高…ベンチも愕然「こんなんあり?」 “石ころ”が起こした大舞台の悲劇

西武・田渕幸一と打球が当たった村田康一・一塁塁審(左)【写真提供:産経新聞社】
西武・田渕幸一と打球が当たった村田康一・一塁塁審(左)【写真提供:産経新聞社】

中日でMVPの中尾孝義氏、1982年に広岡監督率いる西武と対戦「対照的なチーム」

 プロ野球は11日からクライマックスシリーズ(CS)がスタートする。長いレギュラーシーズンとは、また異なった戦い方も求められるステージ。中日の捕手として1982年にリーグ優勝を果たし、MVPに輝いた野球評論家の中尾孝義氏は、「今でも本当に“アレ”がなかったら……と感じますね」と短期決戦の行方を大きく左右したシーンを思い出す。日本シリーズの歴史で、必ずと言っていい程に話題に挙がる伝説の珍事を改めて振り返った。

 1982年の中日は、セ・リーグ最終戦の10月18日に優勝を決めた。一方のパは西武が日本ハムとのプレーオフを制し、一足お先にリーグ制覇。日本シリーズは23日開幕だった。

 中尾氏は大まかなイメージを持って臨んだ。「ミーティングはしましたけどね。日程的に間がなかったので、西武の特徴だとかはあんまり分からなかった記憶があります」。両軍を率いるのは近藤貞雄監督と広岡達朗監督。「対照的でしたよね。近藤さんはグラウンドで選手がどんどんやればOK。イケイケです。僕らは細かい野球はできない。広岡さんは私生活から管理、管理の野球でしたから」。

 ナゴヤ球場で始まった第1戦、第2戦は、ともに序盤に中日が大量失点し連敗。中尾氏は、まだプロ2年目。「西武はベテランが多くて結構やられました。田淵(幸一)さん、山崎(裕之)さん、大田(卓司)さん、片平(晋作)さん。僕もまだまだ若造だったんですよ」。しかしながら、そこは名捕手。敵地・西武球場に移っての第3戦、第4戦からは逆襲に転じた。

「2試合やってみて西武打線の傾向が分かってきた。でも、打ち損じは少なかった。甘い球はほぼ打たれました」。相手の弱点も緻密な強みもきっちり把握。4-3、5-3と接戦を抑えの切り札・牛島和彦投手で締めて連勝し、対戦成績をタイに戻した。「言葉は悪いけど、3戦目からはヤケクソみたいな雰囲気でした。イケイケのチームですから」。竜が本来の姿で昇ってきた第5戦。ここで“アレ”が起こる。

打球が一塁塁審を直撃…ボールの行方が変わって無得点に

 3回2死二塁で先制の好機。平野謙外野手が放った打球はゴロで一塁線へ。西武のファースト田淵は追い付けず抜けた……のに、ボールはよりにもよってセカンド山崎の前に転がっていた。打球は村田康一・一塁塁審の右スネに当たり、方向が変わっていたのだ。山崎は拾ってサードへ転送。二塁走者の田尾安志外野手は長打を確信して本塁に向かっていたが、“異変”に気付いた高木守道コーチが慌てて制止した。だが、三塁に帰り切れずタッチアウトとなった。

 規則では「内野手を通過したフェアボールが審判員に触れた場合にはボールインプレイ」で、審判は“石ころ”同然の扱い。わかっていても中日側にとっては痛すぎた。平野は怒りの表情で納得行かない様子。今も珍事として語り継がれる「石ころ事件」だ。

 中尾氏はベンチで目撃した。「みんな言ってました。『ええーっ、こんなんあり?』『嘘やろ……』って。そんなにメチャクチャ速い打球じゃなかったので、避け切れず当たる審判も審判だと思いました。ちゃんと抜けていれば、平野の足ならツーベースは言うまでもなく、スリーベースの可能性まであった。あそこで先制の1点が入っていたら、もっと得点できたかも知れません」。平野は2番で、後ろにはクリーンアップが待ち構えていた。

 中日は5回に大島康徳外野手のソロで先制するが、直後に同点とされ結局1-3で敗れた。名古屋に帰っての第6戦も4-9で屈し、終戦した。就任1年目の広岡監督に導かれ、ライオンズは「西武」としては初の日本一。翻って見れば、西武の黄金時代はここから始まった。

「“アレ”に尽きるでしょう。野球に『たら』『れば』は付けちゃ駄目なんですが。強くて力があるチームだったら分からないけど、当時のドラゴンズはイケイケ、勢いで勝つチーム。その勢いが止まってしまいました」

 1球、ワンプレーの重みがより増す短期決戦。中尾氏はこのシリーズ24打数9安打で打率.375の大当たり。優秀選手に選ばれた。それでも日本一を逸した悔しさは忘れられない。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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