体調不良に訃報…つきまくった“嘘”に周囲は「辞めるんだろうな」 元WBC右腕の原点

元WBC右腕の清水直行氏の高校時代
2000年代にロッテのエースとして活躍した清水直行氏はプロ13年間で105勝をマークした。アテネ五輪や第1回WBCでも活躍した右腕だが、アマチュア時代はほぼ無名の存在だったという。小学1年生で軟式野球をはじめ、中学時代は部活動。初めて硬球を握ったのは高校入学時。無名の右腕が選んだのは名門・報徳学園高だった。
「すごく上手かった“お兄ちゃん”が報徳に行ったんです」。強豪報徳学園を選んだのは、Hondaの3チームの統括GMを務める甲元訓(こうもと・さとる)氏の存在が大きかった。甲元氏は報徳学園で甲子園出場し、法大、本田技研鈴鹿でも活躍。清水氏とは少年野球チームの先輩後輩だった。また、中学時代に報徳学園のコーチが清水氏を見にきたことがあった。一般受験の末、進学を決めた。
当時の強豪校では1年生はほぼ“陸上部”だった。キャッチボール以外はランニングと声出しのみ。2~3日ごとに1年生が次々と辞めていく中、清水氏自身も辞めたいと思っていた。ただ、「3年間球拾いだぞ」と言ってきた中学の先生に「それでも行きます」と言った手前、どうしても辞める決断ができなかったという。消極的な気持ちは「サボり」につながった。「1年生の時は『体調悪いので』とか、不謹慎ですけど『おじいちゃんが亡くなって』とか、嘘をつきまくって休んでいました」。のちにNPBを代表するような選手になる清水氏も、当時は普通の高校生だった。
それでも野球自体は楽しかった。今思えば、走ってばかりの練習も無駄ではなかった。「1年生の秋くらいから、自分のボールが速くなっているのを感じました」。のちに監督となる永田裕治コーチが1年生の試合を多く組んでくれたのも良かった。「あとで聞いたら僕らの代は期待されていたらしくて、試合で強化する方針だったみたいです」。試合での経験を積み自信に繋がった。
「周りも『こいつ辞めるんだろうな』と思っていたはずです。強く怒られたら辞めようと思っていました。監督やコーチも、嘘ついてサボっているのはわかっていたと思うんですよ。それでも目をつぶってくれて続けさせてもらえて、強く叱られることもなくて、指導者に恵まれたなと思います」
1年生の秋から急成長を見せ、2年生の夏から背番号1を背負った。甲子園には縁がなかったが、高校時代の猛練習が、その後の野球人生を支えたと振り返る。「当時はピッチャーでプロを目指すなら東都と言われていました。東京六大学もすごかったけど、甲子園出場などの実績がないと入れないと聞いていました」。次に選んだのは日大だった。セレクションを受けて圧倒された。
「恥ずかしいと思いながら」受けたセレクション
「僕のことは誰も知らないけど、僕が知っている選手はたくさんいました。報徳が全く勝てなかった育英高校(兵庫)の4番とか、日大藤沢のすごいピッチャーとか、今は社会人野球で監督をやっている、当時有名だった選手もいました。こんなにすごい人たちと並んで投げるのも恥ずかしいと思いながら、やっぱり東京に憧れもあるし、一生懸命投げたのを覚えています」
初めて受けるセレクションだったが、楽しさを感じた。帰りの新幹線で永田コーチに他の大学のセレクションも受けたいことを伝えると意外な返事が返ってきた。「お前、もう日大で決まりだぞ」。当時の日大・和泉貴樹監督が特待生で獲ると話したという。「誰も知らない、地方大会で負けている僕のことを、1日見ただけで、しかも特待生でとってくれるなんて、驚きましたね。これもご縁ですよね」。
「自分では自分の良さはわからなかった」という本人の気持ちとは裏腹に、和泉監督の期待は高く、清水氏は1年春からリーグ戦にデビュー。当時バッテリーを組んだのは、近鉄などで活躍した北川博敏氏だった。さらに春季リーグ後には、この年から新たに始まった、東都選抜の米国遠征も経験した。青学大からは井口資仁氏に加え、のちにロッテで一緒にプレーする捕手の清水将海氏。東洋大からは今岡真訪氏が選ばれていた。同じ1年生では亜大の井端弘和氏や駒大の高橋尚成氏、立正大の広田庄司氏ら豪華なメンバーだった。
大学野球デビューや米国遠征が負担になったのか。「帰国したら、肩が上がらなくなっていました」。剥離骨折と診断され、この怪我により、その後東都リーグではほとんど登板できずに終わった。「今なら大きなケガではないでしょうけど、僕が18~19歳の頃なので、約30年前。治療法もあまり確立されていなかった。ちょうどゴムのチューブとかセラバンドみたいなものが流行り出していた頃で、とりあえずリハビリに専念することになりました」。リハビリを続けたが、顔を洗うのも肩が痛く、常に引っ掛かっているような感覚が続いたという。
少しずつ投げられるようになったのは、3年生の秋頃だった。「1年半以上もボールを持たなくて、投げるのが怖くて130キロくらいしか出ない。投球感覚もなくなって、『どうやって投げてたっけ?』みたいな状態でした」。メンバーにも選ばれず、野手に転向すべく練習も始めたが、結局は投手を続けることになった。
「4年生の頃は投げられるようになってスピードも戻りつつあったんですけど、ストライクが入らない。真っすぐを投げても5球中4球ボールみたいな。もうどこに行くかわからないという状態でした」。その頃はチームも2部に降格していたが、4年生の秋のリーグ戦では、2学年下の左腕・吉野誠氏(阪神など)の活躍があり、1部昇格を果たした。
清水氏の中では「1年生の春だけしか投げられなかった」という4年間だった。「野球を辞めようかな」とも考えたが、幸運なことに社会人で野球を続けることができた。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)