新人で提示された“エースナンバー” 一度は固辞も…人生を変えた亡き恩師の一言

清水直行氏は1年目から背番号18を背負う
巡り巡って背負ったエースナンバーが意識を変えた。1999年のドラフトでロッテから2位指名を受けた清水直行氏は1年目から「18」を背負うことになった。最初はためらいがあったという。
ロッテでは直近のエース級の番号が空いていた。1997年にヤンキースへ移籍した伊良部秀輝氏がつけていた「18」と、1999年オフに横浜へ移籍した小宮山悟氏がつけていた「14」である。すでに先発投手としてエース格だった黒木知宏氏が「54を自分の番号としてつけ続けたい」と「18」への変更を固辞していた。
その結果、同じ年のドラフトで1位指名を受けた高橋薫氏が「14」、順番的に2位の清水氏に「18」が回ってきたのだ。
「ただでさえエース番号なのに、あの伊良部さんがつけていた18番ですよ。僕も古い人間ですし、『さすがにそんなに重い番号は……』と言っていたら、スカウトの水谷則博さんに『いいんだよ、つけろ』と言われて、結局18に決まってしまいました」。背負うことに逡巡があった。ただ、18番をつけたことでその後の意識が変わったという。
「18をもらった以上、無様なピッチングはできない。自分で自分を奮い立たせてくれる番号でしたね。その後のプロ生活の中でもちょっと悪いときがあると、『清水が』じゃなくて、『18番なのに何をやっているんだ』という思いがずっとありました。もし違う番号をつけていたらどこかで甘えが出て、『まあいいか』となっていた気がします」
急逝した担当スカウト「水谷さんのおかげ」
そんな恩人でもあった水谷スカウトは2001年11月に急逝した。51歳という若さだった。「18番をいただいて、自覚を持ってプロ生活を送ることができたのも、水谷さんのおかげです」。故人との出会いを今でも恩義に感じている。
ただ、清水氏は2年目途中まではもがき苦しんでいた。1年目は開幕を1軍で迎え、5月4日の近鉄戦で初先発、初勝利をマーク。しかし、その後は中継ぎへ回った。「ブルペンに一番最初に行って、先発投手に何かあれば投げるというアクシデント要員です。そのあと持ち場の決まっている、藤田宗一さんとか吉田篤史さんらが来る。僕はチャートを書いたり、ファウルが飛んでくれば声掛けしたりという役割でした」。
先発投手にアクシデントがあれば投げる役割ということは、何もなければ登板はない。終盤にも点差が離れれば登板があると言われつつ、なかなか出番は回ってこなかった。1軍にこそいるものの、1週間、2週間と出番がないこともあった。最終的に1年目は27試合に登板(先発は16試合)し、3勝6敗、防御率6.12という成績だった。
2年目はオープン戦で打ち込まれ、開幕2軍スタート。しかし、「その2軍でも結果が出ないんです。先発して打たれて、中継ぎに回っても打たれて」。苦しむ日々を変えたのは2軍監督の平野謙氏だった。
「平野謙さんが見るに見かねて、何かをつかめということで連投させてくれたり、登板機会をたくさんいただきました。試合後に2軍の浦和球場の室内でネットスローをするなど、ものすごく練習したんですけど、平野さんも残って見てくれるんです。僕自身も試合では打たれるし、ストライクは入らないし、もう悔しくて」。
結果が出ず、居残り練習の繰り返し。「夜遅くまで、浦和でネットスローをしていました」。その甲斐もあって、清水氏は徐々に手応えを掴んでいく。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)