開幕11連敗がまさかの転機…出番なしから先発転向「フラフラでした」 エースを生んだ通告

ロッテ時代の清水直行氏【写真提供:産経新聞社】
ロッテ時代の清水直行氏【写真提供:産経新聞社】

プロ2年目の西武戦で感じた手応え

 2000年代にロッテのエースとして活躍する清水直行氏だが、プロ入りから2年目途中までは、苦しい時期が続いた。転機となったのは2年目の2001年、7月14日。この年に開幕したばかりの札幌ドームで行われた西武戦だった。

 7回途中1-3と2点ビハインドの場面で登板する。「前年もブルペンにいてもなかなか出番がなくて、この年初めての1軍登板だったと思います」。当時はコントロールに自信がなく、四球と安打で2死満塁のピンチを迎え、強打者のマクレーンを迎える。

「ライン際にフラフラっと上がったフライ。フェアに落ちたら3点入ってしまうような場面でした。でもそれが幸運にもファウルになって、結果的に0点で終わったんです」。清水氏が7回、8回と無失点で凌いでいるうちに、ロッテは同点に追いつく。同点の9回も続投の指令だった。「僕は敗戦処理の役割だったので、同点になったから交代だと思っていたら、山本功児監督が『そのまま行け』と」。

 9回もゼロに抑えると、延長10回にロッテは一挙に4得点。その裏もゼロに抑えた清水氏が勝利投手となった。「この試合をきっかけに勝ちパターンのセットアッパーになったんです。そのあとずっと勝ちパターンで投げました」。この年はシーズン半ばからリリーフだけで31試合に登板し、6勝2敗、防御率3.74という好成績だった。

 1年目から18番を背負っていた。セットアッパーの経験はなかったが、やりがいを感じていた。「2軍では『18番がここにいてはいけない』と思っていました。『18番はやはり先発』という思いもなくはなかったんですが、どこでも与えられた役割で投げようと。ピンチに登場してビシッと抑えるのもカッコいいですし、3年目もそのつもりでいたんです」。

開幕11連敗で出番なし…急な先発転向

 しかし翌2002年、チームは開幕11連敗を喫し、勝ちパターンのリリーバーたちは出番がなかった。「クローザーの小林雅英さんを先発にという話もあったくらいです。僕自身、短いイニング前提でキャンプから取り組んできましたが、先発することになりました。投手コーチの小野和幸さんにも『3回でもいいから』と言われましたが、結局7回途中まで投げて、もうフラフラでした」。12連敗を阻止する立役者になった。

 そこから先発投手として1年間フルに働き、14勝を挙げ飛躍のシーズンになった。活躍の鍵はカットファストボールを覚えたことだった。「それまで真っすぐのコントロールが悪くて、きっちりコースに投げなきゃいけないと思うと余計に苦しくなっていた。でもカットはだいたいこの辺という感覚で投げても、ファールや凡打になったり、良い打者だと『真っすぐと違う』と思った瞬間にバットが止まったり。ストライクゾーンの中で勝負できるようになって、楽になりました」。

 さらに2003年は204イニングを投げ、15勝。この年の鍵はスプリットだった。それまでもフォークは投げていたが変化が大きく、ボールになってしまうことも多かったという。「井上(祐二)投手コーチから『そんなに挟まなくても落ちるよ』と教わって、縫い目をずらしたりしてオープン戦で投げてみたらシュート気味にクッと落ちたんです。その試合でコツをつかみました。前年のカットに加えて何か縦の変化を加えたいと思っていたところ、今年はこれで行けるという手応えがありました」。

 それからは、かつて制球で苦しんでいた姿は、もうなかった。「急にコントロールの良い投手に変身しました。大学や社会人、プロの1年目くらいまでの僕を知っている人は、コントロール良いなんて誰も言わないです。僕の中ではカットとスプリットで、もう制球に苦しむことはなくなりました」。

 わずか2年の間に飛躍的に制球力が向上した。カットとスプリットを覚えたこと以外にも要因があった。「振り返ってみるとアマチュアの頃からキャッチボールだけは丁寧にやっていました。ストライク入らないけど一丁前に(笑)。遠投とか、20~30メートルの低投とか、時間をかけていました。足場もちゃんと平らになるところを探して、踏み出す位置を一定にしたり。チェックポイントも僕の中ではいろいろあって、引退するまでずっと変わらなかったですね」。

 一躍、球界を代表する投手になった。その後、日本代表での国際大会やロッテの躍進にも貢献していく。

(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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