肩に注射…限界の体に「もう無理」 戦力外で浪人、他球団から誘いも言えなかった“YES”

WBC出場で「視野がすごく広がった」
元ロッテの清水直行氏は2002年に自身の2桁勝利となる14勝、2003年に15勝を挙げ、一躍エースとなった。2004年はアテネ五輪があり、日本代表入り。初のプロだけの五輪代表で、そうそうたるメンバーの中、清水氏は2試合に登板。予選のギリシャ戦で勝利投手になるなど、銅メダル獲得に貢献した。
「監督が長嶋茂雄さんで、でもその長嶋さんが脳梗塞で入院。帰ってきてから成田のホテルで長嶋さんにみんなで報告して、メダルをお見せしました。日本代表に選ばれて、視野がすごく広がったし、自信もつきました。これからも日本代表でプレーしたいと強く思いました」
その2年後の2006年。第1回WBCが開催され、清水氏はここでもメンバー入りする。「春のキャンプは行かずに自分たちで調整して、大会に入りました。前年に日本一になったのでマリーンズの選手も多かったし、2004年の五輪のメンバーも多数いた。それに何と言ってもイチローさんや大塚(晶文)さんらメジャーリーガーも一緒になった。他国もメジャーリーガーが参加するし、五輪とはまた違った、世界一を目指す野球になって、大いに刺激を受けました」。
「僕自身も指を舐めてフォアボールになったり、西岡(剛)のタッチアップだったり、いろいろあった」ものの、日本は見事に優勝。監督は王貞治氏だった。「前回は長嶋さん、今回は王さん。常にプロ野球の中心だった『ON』のもとでプレーできたことは、すごく価値のあることだったと今でも思っています」。
所属するロッテでは、2004年からボビー・バレンタイン氏が監督になっていた。その年は五輪があって1か月ほど不在だったにもかかわらず、10勝に到達。近鉄とオリックスの合併問題や新球団の楽天が登場した2005年は、交流戦も始まるなど激動の年だったが、ロッテは日本シリーズに優勝するなど大ブレーク。清水氏を含む先発投手6人全員が2桁勝利を記録した。
バレンタイン氏のもとで2年連続開幕投手を務めた清水氏だったが、2006年はWBCの影響を考慮して、2カード目に先発することになった。「一つだけボビーに不満を言うとすれば、『なぜ僕に開幕投手をやらせてくれなかったのですか』と言いたいくらい、僕はどうしても投げたかったんです」。その他にも、先発投手の球数を7回100球できっちり守るというボビーの方針は、慣れるまで紆余曲折があった。
戦力外→1年間の浪人生活も「お世話になりますと言えなかった」
しかし後から考えると、バレンタイン氏のやり方に感謝している部分もあるという。「先発ローテーションもきっちり6人で回したし、7回100球という基準も守られていたし、後ろもYFKと言われたようにリリーバーの役割を確立していた。僕が長くやれたのも、ボビーに肩ひじを守ってもらったからかな、とも思っています」。
清水氏は2009年までの8年間、規定投球回に到達し続けていた。その間、2桁勝利は6回とまさにロッテのエースだった。しかし2009年オフ、トレードで横浜に移籍することになる。「最初はポンポンといい感じで勝てましたが、やっぱりセリーグの野球って難しいなと感じた1年でした。チームの状態もあまり良くなくて」。この年は10勝11敗、防御率5.40という成績だった。
さらに長年の勤続疲労が出始める。横浜での2年目となる2011年は肩の不調に加え、膝の不調にも悩まされた。肩は注射、膝は座薬で対処したが、限界を超えていた。「マツダスタジアムの階段でさすがにもう無理だと思い、監督にお伝えしました」。膝の手術をするがなかなか回復せず、もう一度手術をした。2011年は7試合の登板に留まり、翌年は登板ゼロ。横浜を戦力外となった後の2013年は浪人という形でリハビリに費やし、2014年3月に現役引退を発表した。
「浪人中もいくつかの球団から声をかけていただいたんですが、走れない、ベースカバーに行けない、左足が曲がらないまま投げなきゃならない、ということでさすがに貢献できないなと。そんな状態で『お世話になります』と言うことはどうしてもできませんでした。肩ひじは元気なので、膝さえ大丈夫なら投げられたんですけどね」。無念もにじませつつ、引き際は潔いものだった。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)