名将から誘惑…左腕を襲った“悪夢” 落合博満から「やめとけばよかったね」

元阪神の湯舟敏郎氏が忘れないオールスターゲーム
NPB通算60勝の元阪神左腕・湯舟敏郎氏(野球評論家)がキャリアハイの12勝をマークしたのは、プロ3年目の1993年だ。「僕が投げる時はムチャクチャ打ってくれたんですよ」。前半戦から勝ち星を積み重ね、オールスターゲームにはファン投票で選出され、第2戦(7月21日、グリーンスタジアム神戸)に先発した。セ・リーグを指揮したヤクルト・野村克也監督や中日の主砲・落合博満内野手との“会話”も印象に残っているという。
湯舟氏はプロ2年目の1992年、6月14日の広島戦(甲子園)でノーヒット・ノーランを達成するなど11勝を挙げた。シーズン終盤に痛恨のリリーフ失敗こそあったものの、虎の主力左腕の一人として成長を遂げた。オフには日米野球も経験。第5戦(11月4日、甲子園)に3番手で登板し、ケン・グリフィー・ジュニア外野手(マリナーズ)やセシル・フィルダー内野手(タイガース)らと対戦して2回1安打無失点に抑えた。
「日米野球はあまり記憶にないけど、もしかしたら変化球のサインばかりだったんじゃないですかね。確かキャッチャーに、”やっぱり真っ直ぐは怖くて、よう(サインを)出さなかった”と言われたような。たぶん他の人は真っ直ぐで押していた。その下地があったので、僕は変化球だけで抑えられたんだと思いますよ」と笑みを浮かべながら話したが、その経験も次につなげたのだろう。3年目の1993年は虎のエース格として、チーム勝ち頭の12勝を挙げた。
開幕2戦目の4月11日の中日戦(甲子園)に先発して、8回2/3、3失点で1勝目。4月17日の横浜戦(横浜)は1失点完投で2勝目。4登板目の5月3日の横浜戦(甲子園)では4安打完封で3勝目と勝ち星を積み重ねた。5月11日の巨人戦(東京ドーム)でシーズン初黒星を喫したが、4勝目を挙げた5月19日の中日戦(金沢)から9勝目の7月1日の広島戦(甲子園)までは6連勝と波に乗った。前半戦終了時は10勝2敗だった。
「僕が投げている時は、もうメチャクチャ打ってくれたんですよ。僕が打たれても、それ以上に点を取ってくれた前半戦でした」と湯舟氏は打線の援護を強調したが、そんな好成績を反映するように、オールスターゲームにはファン投票で選出された。「(巨人の)桑田(真澄)とか(中日の)今中(慎二)とかすごい投手がいた中で、ありがたいことでした。(阪神)球団のファンは多いし、いい具合に勝ったからでしょうけど、名誉あることですしね」。

苦しんだ後半戦、10月には肩を痛めて戦線離脱
7月21日の球宴第2戦(GS神戸)に先発した。パ・リーグの先発は、こちらもファン投票で選出された近鉄・野茂英雄投手だった。その野茂が2回3失点で降板したのに対して、湯舟氏は2回無失点、打者7人に投げて無安打1四球の内容だった。「あの時、3イニング目を『どうする、行くかぁ』と(全セ監督の)野村さんに聞かれたと思う。『次を抑えたら賞を取れるんじゃないか』とも言われたのかな。で、投げたんですけどね」。
3回は1死からロッテ・宇野勝内野手に右前打、西武・秋山幸二外野手に中前打、近鉄・大石大二郎内野手に左越え2塁打、近鉄のラルフ・ブライアント外野手には右犠飛。3-0から一気に3-3の同点にされてしまった。「ベンチに戻ったら(中日の)落合さんに『2イニングでやめとけばよかったね』みたいなことを言われました。確かになぁって思いましたよね。まぁ僕にとってオールスターはそれが最初で最後だったんですけど、それもいい経験でした」と振り返った。
しかし、後半戦は一転して苦しんだ。11勝目を挙げたのは8月26日の巨人戦(東京ドーム)だった。この試合では巨人のゴールデンルーキー・松井秀喜外野手と初対決。「最初の対戦ではスライダーで三振にとったんですけど、その時に松井はスライダーの下を振ったんですよ。変化しているのがわかっているから下を振っているんです。真っ直ぐだと思っていたら上を振るんでね。高卒1年目ですごいバッターやなと思いましたね」。
その日の対松井は4打数2安打2三振ながら、湯舟氏は8回2/3、2失点の好投で後半戦初勝利をつかんだ。しかし、その後もスムーズにはいかなかった。9月15日の広島戦(甲子園)で12勝目を挙げ、9月25日の巨人戦(甲子園)で6敗目を喫したところで、シーズンを終えた。10月に阪神が19試合を残していたなかで戦列を離れた。「肩を痛めてしまったんですよ。それで投げられなかったんです」。
3年目の湯舟氏は23登板、12勝6敗、防御率3.52。プロで年々、成績をアップさせていたが、振り返れば、この左肩痛離脱が、苦しい時代の第1段階だったのかもしれない。この先、厳しくて、辛い試練が待ち受ける。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)