練習中に阪神から呼び出し…予期した戦力外通告 “放出”に複雑も漏れた「クビじゃなかった」

元阪神の湯舟敏郎氏が悩まされた左足の怪我
阪神でノーヒットノーランを達成するなど一時代を築いた湯舟敏郎氏(野球評論家)はプロ10年目、2000年オフに近鉄にトレード移籍した。その年は2完封を記録したが、18登板、4勝7敗、防御率5.21で8月22日のリリーフ登板を最後に2軍落ちし、シーズンを終えていた。「クビの可能性もあるのかなぁと思っていたらトレードでした」。1990年ドラフト1位で入団して阪神に愛着はあったが「もう行くか、やめるかなのでね」と当時の心境を語った。
阪神が名将・野村克也監督体制になった1999年、湯舟氏は13登板、1勝6敗、防御率5.72でシーズンを終えた。前年(1998年)に左足甲を骨折して手術。暖かい米国フロリダでのリハビリ自主トレなどを経て、ペナントレースを迎えたが、本来の投球はできなかった。「足の怪我だったのでね。足を使ってトレーニングすることって多いじゃないですか。そういうことが、やっぱり不足していたんでしょうね」。
開幕9戦目の4月14日の横浜戦(甲子園)でシーズン初登板。先発で起用されたが、3回2失点、打者16人に7安打を許して、その回で降板し、敗戦投手になった。2登板目は4月17日のヤクルト戦(福岡ドーム)、1-1の8回から2番手でマウンドに上がったが、いきなり左打者のロベルト・ペタジーニ内野手に勝ち越しアーチを浴びて、その打者1人で降板し2敗目を喫した。3登板目は4月30日の広島戦(甲子園)で先発したが、3回3失点で2軍落ちとなった。
「もうアップ、アップだったんでしょうね。球もいっていなかったと思います」。そこから7月中旬までファーム暮らし。1軍に復帰し7月14日の横浜戦(甲子園)に先発、5回0/3、3失点で1998年4月22日以来の勝ち星をつかんだが、結局この年は1勝だけ。先発で使われたものの、その後は黒星しかつかなかった。「その時の精一杯がそれだったんでしょうね。その時の万全がそれやったということです」と湯舟氏は唇を噛む。
左足の故障以来、投球フォームにも変化が起きていたという。「軸足が回るのがメチャクチャ速くなったんです。それを何とかしたいなってそればかり追いかけていた。トレーニングコーチには“もう昔を求めるんじゃなくて、現状で何をするかが大事だよ”って言われたんですけど、いや、こうやってやりたいんだと思うと前の(フォームの)方にいっちゃっていました。現状把握ができていなかった。最大にいけないことをしていたんだろうなって今は思いますね」。

オフに通達された近鉄へのトレード移籍
野村体制2年目の2000年は開幕2戦目の4月1日の横浜戦(横浜)に先発し、6回2/3、5失点で黒星スタートだったが、4月16日の中日戦(甲子園)では3安打完封で1勝目。5月6日の広島戦(広島)でも4安打完封で2勝目と復調の兆しを見せた。だが、リズムを崩すと打ち込まれる不安定さも背中合わせ。「浮き沈みがすごい年だったと思います」。6月11日の横浜戦(札幌円山)で1失点完投の4勝目を挙げたが、それが阪神でのラスト勝利になった。
やはり投球フォームの変化がいろんな影響を与えていたようだ。「僕は割と変化球とかいきなり本番で使っちゃうタイプ。それがうまいこといくと自信になって、どんどん使えるようになるんです。それがスライダーだったんですけど、なくなった時に帰れる場所がなかったので、どうしたらいいのかわからなくなりました。ボールツーになっても“ま、えっかー、スライダーあるし”みたいな頼れる球だったんですよ。それがなくなって一気に自信がなくなったというか……」。
8月22日のヤクルト戦(大阪ドーム)は1-4の3回から2番手で登板し、2回3失点で降板。その後は1軍登板なしでシーズン終了を迎えた。4勝ながら2完封もあったが、湯舟氏は「クビの可能性もあるかなぁと思っていました」と話す。そして10月の鳴尾浜での練習中に球団から近鉄へのトレードを通達されたという。阪神からは湯舟氏以外に山崎一玄投手と北川博敏捕手、近鉄からは酒井弘樹投手、面出哲志投手、平下晃司外野手の3対3の交換トレードだった。
「トレードは予測してなかったけど“ああ、クビじゃなかったんや”って少し安堵したような、そっちの気持ちの方が僕の中では大きかったです」。即答はしなかった。「別に何かあったわけじゃないですけど整理できてなかったっていうんですかね。当然(阪神に)愛着もありましたし、持ち帰りました。で、翌日には連絡しましたよ。『近鉄に行きます』って」。新天地で心機一転の思いもあったことだろう。しかし、そこで待ち受けていたのは、またしても思わぬ“試練”だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)