ドラフト上位候補のはずが…洗面所で“失態” 評価下落→パチンコ屋で知った4位指名

達川光男氏のプロ評価は東洋大4年春から急落「目が悪いのがバレたから」
元赤ヘル捕手の達川光男氏は、1977年のドラフト4位で東洋大から広島入りした。広島出身で幼い頃からカープファンだけに、うれしい指名だったが、その朗報はパチンコ店で聞いたという。「テレビのドラフト中継があった2位までに指名されなかったし、1年生に『ちょっと行ってくるわ。何かあったら呼びに来てくれ』って頼んでいたんです」。そんな下位指名の背景にはドラフトイヤーでの思わぬ評価ダウンがあった。
東洋大は1976年秋に東都大学リーグ初優勝。11月に行われた明治神宮大会は2回戦で近大に6-0で勝利、準決勝では早大に惜しくも4-5で敗れたものの、2年生エース・松沼雅之投手(元西武)を好リードした3年生捕手・達川氏にはプロのスカウト陣も注目し、翌1977年のドラフト上位指名候補と言われていた。だが、その評価が大学4年春から変わりはじめた。理由は「達川は目が悪い」との情報がスカウト間に広まったからという。
きっかけは1977年春のリーグ戦の開幕戦だった。達川氏はその試合に向かう前に洗面所でコンタクトレンズの片方を落として、流してしまった。「替えを持ち歩いていなかった」ため、そのまま片方はよく見えない状態でゲームに突入したところ、パスボールを3度もしてしまった。この試合は松沼の東都リーグタイの9連勝がかかっていたが、敗戦。「松沼の記録を途切れさせちゃったんですよ。松沼には悪いことをしました」と申し訳なさそうに話した。
この時の達川氏らしくないプレーにはスカウト陣も首を傾げていた。情報が飛び交い「あれで私が、コンタクトをしていたことがバレたんですよ」。視力に関することはそれまで公にしていなかった。「あの頃は目の悪い選手でキャッチャーは無理と言われていましたからね。まぁ、その考え方は間違いだったんですけどね。その後に古田(敦也捕手、元ヤクルト)というメガネの選手が一番いいキャッチャーになったわけですから……」と話したが、当時は一気に大きなマイナス材料になってしまった。
プロ入りを目標に掲げて、東洋大で成長していった達川氏だが、この一件でプロの評価が下がり、社会人野球入りも視野に入れざるを得なくなった。12球団のスカウトに注目されていたのが、最後は広島と大洋(現DeNA)のスカウトだけ。その両球団にしても動向は不透明で、1977年11月22日のドラフト会議当日は指名なしに終わることも覚悟していたそうだ。
「親父が『早くしろ。カープの気が変わるかもしれないから』と…」
早大・山倉和博捕手が巨人、法大・袴田英利捕手がロッテと大学生捕手が2人もドラフト1位で指名された中、達川氏の名前はなかなか呼ばれなかった。「テレビ(のドラフト中継)は2位までしかやらなかったし、2位が終わったところで(指名がなかったので)ちょっとパチンコ店に行くことにした。1年生に行き先を伝えて、何かあったら呼びに来てくれと言ってね」。見通しが立たない状況が、思わずそんな行動をとらせたのだろう。
結果は広島が4位で指名。「1年生がすごいダッシュで(パチンコ店に)来ましたよ。『カープ4位です。(高橋昭雄)監督に“すぐ呼んでこい”と言われました』って。『おう、そうか。でも、ちょっと待ってくれ。今(パチンコが)いいところだから』なんて言いましたけどね」。幼い頃から大ファンの広島が指名してくれたのだから、うれしくないはずがないが、そこはまず自分を押し殺し、パチンコを理由に敢えて冷静に対応しようとしたようだ。
「本当がどうかはわからないけど、(広島の)私の担当スカウトだった木庭(教)さんには『お前はもしかしたら大洋だったかもしれなかったんだぞ』と言われました。『大洋が“広島が(達川指名に)行かないのなら、ウチが行く”って言ってきたから、慌てて獲ったような感じだ』って」。達川氏はそんなことも口にしたが、“コンタクト問題”で多くの球団が手を引いたから、広島との“縁”ができたとも言えなくもない。
「(パチンコ店から)寮に帰ったら(高橋)監督が『君、よかったな』と言ってくれた。『すぐに広島に帰れ。親御さんと(広島商監督の)迫田(穆成)さんに相談して来い』って。今考えれば、電話でもよかったなと思いますけどね。家に帰ったら、親父が『早くしろ。カープの気が変わるかもしれないから』と……。親父はよくシステムがわかっていなかったからね」。誰もが喜んでくれた地元カープ入りだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)