現役引退→監督就任も「選手が来ない」 困難な運営…直面した現実「休止にすれば」

元阪神の中込伸氏が振り返る台湾でプレーした4年間
目標にしたNPB復帰はならなかった。元阪神右腕の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)は、2005年に台湾プロ野球・兄弟エレファンツで現役引退を決意した。2001年オフに阪神を戦力外となり、2002年から台湾に渡り、兄弟でエースとして君臨したが、日本球界から声がかからず「もういいかと諦めがついた」という。阪神で13年、兄弟で4年の計17年間のプロ選手生活を終え、次のステージは指導者人生。大きな夢を持ってスタートしたが……。
2002年、台湾・兄弟入りした中込氏は28登板、2完封を含む8完投の15勝9敗、防御率3.26の成績を残した。シーズン当初は調整不足が目立ったが、5月以降は調子を取り戻してエース格になった。これには「(日本とは)レベルが違いますからね」と話しながらも「その前に台湾から日本に選手として復帰した人がいたのも知っていたから、そういうチャンスもあると思って、もう1回、日本に、っていう気持ちがあったから練習も頑張りました」。胸に秘めた思いがあっての結果でもあった。
阪神時代の“野村克也監督の教え”が、とても役立ったという。「阪神の時は嫌で嫌でしょうがなかった。野村さんのミーティングではノートもとっていなかったし、まともに聞いてもいなかった。一番後ろに広沢(克己)さんと新庄(剛志)と僕が座って(3人で)話をしていたし……。でも嫌々ながらも、そういう勉強もしていたし、例えばゲッツーを取りたい時は(配球を)どうするとか、そういう知識はあったのでね」。
もう一度、その勉強もしたそうだ。「(阪神の時に)みんなに(“野村の考え”などが書かれた)配られたものがあった。それはもらっていたので、そういうのを(台湾で)読み返しました。野球に対しての考え方とか、深いところを教えてくださっていたのでね。よかったです。それを見て、ああってなりました」。そんな“野村の考え”も、中込氏の台湾での勝ち星量産につながった。大きなパワーになったのだ。
2003年は13勝8敗3セーブ、防御率2.53、2004年は14勝6敗、防御率2.77。中込氏は2002年から3年連続で2桁勝利をマークした。しかし、日本球界から声はかからなかった。「台湾で3年やって、年も重ねて、30代半ばにもなるし、もういいかなって思った。野球に諦めがついた。コーチをやってくれということで(4年目の2005年は)選手兼任になったけど(選手としての)練習はほとんどしていなかった」と振り返る。
現役引退後、社会人野球のクラブチーム「サムライ那覇」を設立
コーチ兼任の2005年は3勝6敗、防御率4.67。この年限りで中込氏は現役を引退したが、気持ちの上では、その前年の2004年に燃え尽きていたわけだ。通算成績は阪神13年間で41勝62敗2セーブ、防御率3.74、兄弟4年間で45勝29敗3セーブ、防御率3.15。「やり尽くした」という中込氏は兄弟を退団し、日本に帰国。知人からの勧めで2006年1月に社会人野球のクラブチーム「サムライ那覇」を沖縄・那覇市に設立し、自らが監督を務めることになった。
「今度はそこでプロ野球選手になる子を育てたいと思った」。指導者として新たな夢のスタートだった。2月に入団テストを行い、3月下旬から始動。5月には日本野球連盟に登録が承認された。だが、うまくいかなかった。「(選手たちは)仕事をしながら野球っていうのがしんどかったみたい。そのうち練習にもこなくなったりして……」と中込氏は無念そうに振り返った。
「何とか選手たちに野球の方を向いてもらおうとスポンサーの人にお願いして微々たるものですけど賞金を出してもらうようにしたんですけど、そしたら、選手は試合の時にしか来ないんですよ。これではチームとして成り立たない、2年目(2007年)になって、どうしようって思っていた時に台湾(の兄弟エレファンツ)からコーチで来てくれないかって声がかかったんです」。中込氏はスポンサーや関係者に、チームの今後のことも含めて相談した。
「スポンサーの人らには『それはチャンスだから、そっち(台湾)に行った方がいい。サムライ那覇は休止にすればいい』と言われた」という。周囲がそうアドバイスするほど、チーム運営は困難な状況だったということだろう。志半ば、悔しい思いでいっぱいだったが、結局、中込氏は再び、台湾への道を選択した。そして2008年シーズンから兄弟の投手コーチに就任。2009年後期からは監督に昇格し、チームを優勝にも導いた。だが「それがえらいことに……」。待ち受けていたのは、まさかの八百長問題だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)