バッグ投げつけ激怒「絶対にやらない!」 破られた2つの“約束”…人生唯一の保留の真相

日本ハム時代の武田一浩氏【写真提供:産経新聞社】
日本ハム時代の武田一浩氏【写真提供:産経新聞社】

MLB中継解説者・武田一浩氏、契約更改交渉を振り返る

 怒りの保留だった。NHKのMLB中継解説者として活躍中の野球評論家・武田一浩氏は、1987年ドラフト1位指名を受けて日本ハムに入団。2年目に規定投球回に到達して頭角を現すと、3年目には抑えに定着してタイトル争いを展開した。4年目の1991年には最優秀救援投手のタイトルを初めて獲得。ただ、当時は救援投手の評価が低く、自信を持って臨んだ契約更改交渉で激怒して席を立ったこともあった。

 1991年は開幕から守護神に君臨。5月は初めて月間MVPを受賞した。「その年は状態はあまり良くなかったんです。前年の方が良かった。(身長171センチと)体も大きくなかったし(プロとして)成長段階の時期。後半戦は球がいかなくなって打たれることもありました」。納得がいかないシーズンだったものの、自己最多41試合に投げ4勝8敗18セーブで最優秀救援投手に輝いた。

 12月2日の契約更改交渉。3100万円から1100万円増の年俸4200万円を提示された。「5000万円はいくと思っていたので『えっ?』という感じでした。『話にならないので帰ります』と言って席を立ちました」。すると慌てた球団側が「ちょっと待って。4700万円にするから」と500万円を上乗せしてきたという。

「それにカチンときたんですよ。だったら最初から4700万円と言ってくれと思います。5000万円を希望していたけど、最初に言ってくれれば『どうしたら来年もっと上がるのか』とか、気持ちよく話し合えるじゃないですか。そこが問題だったんです。そういうのが嫌で『ふざけるな!』という感じになったんです」。交渉を保留して会見場に現れた武田氏は、セカンドバッグを壁に投げつけ「もうリリーフなんて絶対にやらない!」などと怒りをぶちまけた。

「リリーフは当時、評価されないポジションだった」

 これには当然、伏線がある。1年目の年俸は600万円。2年目は840万円となり、同年は規定投球回に到達したことで大幅アップを期待したが3年目は1680万円にとどまった。3年目は10勝13セーブとブレークしたが3100万円。「今の時代と比べると安いですよね。リリーフの1年目が終わって球団に『来年もやったら(活躍したら)給料を上げてやる』って言われたんです」。迎えた4年目はタイトル獲得。前年の“約束”が反故にされた思いが強く、感情を抑えられなかった。

「リリーフは当時、あんまり評価されないポジションだった」と振り返る中、もう1つ引っかかったことがあったという。待遇改善を求め「投手は(契約更改交渉の)1回目でサインしないというふうに、みんなで話して決めていたんです」と選手サイドの“作戦”があった。だが、ベテランの柴田保光投手があっさり1回目でサイン。「それにも僕はちょっと頭に来ていたんですよ」と裏話を披露した。

 先発、中継ぎ、抑えの役割分担が確立された現在は、救援投手の待遇も向上し、高額年俸を手にするケースが増えている。「今は評価され過ぎですよ。ちょっと活躍したら、今の時代はすぐ1億円プレーヤーになれる」と言いつつ「評価されるのは選手にとっていいことです」とうなずいた。

 武田氏の時代はまだ救援投手の評価は低かったのは事実。最終的には4950万円でサインしたが「給料が上がらないから『先発させてほしい』と契約更改で言いました」という。抑えで実績を残した右腕は、プロ野球人生で唯一の「保留」を経て5年目から本格的に先発に転向。新たなポジションで後年、最多勝や12球団勝利などの記録を打ち立てていった。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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