憧れだったのに…巨人移籍を「断って辞めようかな」 予想外の放出、複雑だった“付属品扱い”

元近鉄・太田氏が語る巨人へのトレード移籍の裏側
“元祖甲子園アイドル投手”の太田幸司氏(野球評論家)は、プロ14年目の1983年開幕前の3月25日に石渡茂内野手とともに近鉄から巨人に移籍した。金銭トレードだった。1981年以降、0勝のシーズンが続く苦しい立場でもあり「僕は刺身のつま。石渡さんの付属品、そんな感じだと思いました」。青森・三沢高から1969年ドラフト1位で入団以来、バファローズ一筋だった右腕は当初、移籍を断って引退することも考えたという。
1979年の阪急とのプレーオフ前に右肩痛を発症させてから太田氏は勝てなくなった。1980年は14登板で0勝4敗。近鉄・西本幸雄監督が勇退した1981年は1軍登板がわずか1試合の0勝1敗だった。「僕は西本さんが監督になってから2桁勝ちました。自分の一番いいときの監督。なのに、最後の年に何もできませんでしたからねぇ」と、恩師のラストシーズンに働けなかった悔しさを募らせた。
西本監督との思い出は尽きない。「厳しかったですからねぇ。僕なんか4回2/3で代えられたことも何度もありましたよ。でも、すごいのは(エースの)鈴木啓示さんにも試合中のベンチ前で「何だ、あれは、どないなっているんだぁ!」と怒るんですよね。監督によっては主力にへそを曲げられたら嫌と思う人もいるだろうけど、西本さんは逆でしたからね」と、ベテランも若手も関係なしの“熱い”姿は忘れられないという。
「試合中の西本さんは1球ごとにドン、ドーンとベンチを蹴飛ばしたりもしていた。負けて終わって僕らが荷物を片付けて『お疲れさまでした』と言っても座って動かない時もあった。勝負に対する気持ちはすごくて、負けたのに帰りのバスでチャラチャラやっていたら『お前ら、悔しくないのかぁ!』とよく怒られましたよ」。太田氏はそんな西本イズムで近鉄の主力投手になっただけに、指揮官最後の年に右肩痛のため何の恩返しもできなかったのは痛恨だった。
しかも故障の影響はさらに続いた。近鉄が関口清治監督体制になった1982年は13登板(1先発)で0勝0敗。ほとんどが負け展開のリリーフでの出番で、唯一の先発となった6月24日の阪急戦(藤井寺)も2回自責点4でKOされた。この頃も右肩痛に苦しみ、2軍生活の方が長くなった。もはや戦力になっていなかった。巨人に移籍したのは、その次の年、プロ14年目の1983年だった。
開幕前に待っていた通告、複雑だった巨人移籍「やめようかなって」
「キャンプは近鉄だったし、もうシーズン寸前ですよ」と太田氏が話すように開幕前の3月25日の出来事。石渡内野手とともに金銭トレードでの移籍だったが、全く思ってもいなかった行き先だった。「近鉄での出番が減ってきて、阪神の編成担当がよくファームの試合を見に来ていたから、その人には冗談で『ちょっとアレしてくださいよ』とか話をしていたんですけどね。ジャイアンツと聞いてびっくりしました」。
太田氏にとって巨人は、少年時代から大ファンの球団だったとはいえ、複雑な気分だったという。「巨人は石渡さんが、ショートが欲しかったんです。だからまぁ、もう刺身のつま。石渡さんの付属品ですよ。だって、あの頃の巨人投手陣って江川(卓)、西本(聖)、定岡(正二)とかですよ。“えっ、あんなところに近鉄でも放れないピッチャーがいってどうするんだ”って話ですよ。あの時、僕はもう断って(現役を)やめようかなって思いましたもんねぇ」。
最終的に承諾したのは「後援会の人といろいろ話をした」結果だった。「今まで近鉄でずっと来ているし、やれるか、やれないかは別にして、他のチームの飯を食うのも経験になるんじゃないか、ということで、それなら一発、勝負をかけてみようとなったんです」。背番号は33番に決まった。「33番はのちに長嶋(茂雄)さんが(1993年の2度目の監督の時に)つけたでしょ。あの時“あ、俺がつけていた番号だ”って思いましたけどね」。
しかし、巨人の背番号33のユニホームで、太田氏が1軍公式戦のマウンドに上がることはなかった。「(1983年は)開幕してちょっとの間は1軍にいたんですけど(開幕5連勝など)なかなか負けないから、僕が出るところはなかった。(3カード目の4月17日に)甲子園での阪神戦が終わった後『明日から2軍』と言われました」。そのまま2軍生活が続いた。結局、巨人生活はその年限りで終わり、オフに阪神に移籍。高校時代の思い出が詰まった甲子園が太田氏のプロ人生最後の“本拠地”となる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)