広島からオファーも「行きません」 “内定先”も異例の拒否、周囲の反対を押しのけ選んだ進路

杉本正氏は高校卒業へ向け大学、社会人、プロから誘い
西武、中日時代に2桁勝利を計3度マークした左腕・杉本正氏(野球評論家)は1978年、静岡・御殿場西高を卒業して社会人野球・大昭和製紙(富士市)に入社した。静岡大会3回戦でノーヒットノーランを達成するなど、高3夏の快投で評価を高めてのことだったが、当初は日本楽器(浜松市、現・ヤマハ)に行くつもりでいたという。それをひっくり返したのは「僕の人生を変えた高校の監督のひと言があったんです」と話した。
1977年の静岡大会で、御殿場西のエースだった杉本氏は2回戦で7回コールド参考記録のノーノー、3回戦では9回を投げきってノーノー、惜しくも0-1で敗れた4回戦も被安打2の見事な投球内容で注目を集めた。大会前の進路相談では野球部コーチでもある担任の先生に「高校で野球を辞めて、調理師を目指します」と伝えていたが、もはや周囲が黙っていなかった。「(静岡)大会が終わったら、学校にいろんなところから誘いがあったみたいです」。
大学、社会人、プロ。「大学は東都のところはほとんど。駒沢(大)の太田(誠)監督からも『ウチに来ないか』って。太田さんは(同じ静岡の)浜松出身ですし、講演に来られた時があったんです。ほかにも結構、声をかけてもらったんですけど、僕は『大学は絶対行きませんから』って断っていました。だって、また苦しい思いをするのは嫌だから。わかるじゃないですか、高校より厳しいというのが。それに経済的なものもあるし……」。
プロは広島から話があったそうだ。「ドラフト外で、って話で契約金が500万だったのかな。でも、そんなお金の問題じゃなくて『僕なんかプロは絶対無理だから行きません』っていうふうに、はなから断ってくださいと(学校側に)言ったんじゃないかと思います」。カーブを武器に静岡大会で好投したとはいえ、この時はまだまだプロなんて、という考え。そんななかで進路の選択肢として残ったのが社会人野球入りだった。
日本楽器の練習に参加後「食事をご馳走になって」
「複数の企業チームから話がありました。記憶は定かではないんですけど、どうも最初に大昭和製紙から来ないかって言われて、その時に僕は断ったそうなんですよ。で、(高3の)夏休みに、日本楽器からとりあえず来てくれって言われて行ったんです。そしたら甲子園まで見学に連れていってくれて(8月12日の2回戦で)東洋大姫路対千葉商を見ました。その大会で優勝する(東洋大姫路の左腕)松本(正志投手、1977年阪急ドラフト1位)が投げている試合をね」
同い年で左腕の松本は4安打、10三振で千葉商を完封。杉本氏が刺激を受けたのは言うまでもないが、日本楽器サイドからはさらに厚遇を受けた。「食事をご馳走になって、グラブとスパイクまでいただいたんです。当時は支度金というのがあって(入社すれば)100万円出してくれるってことも聞きました。まぁ、お金に関しては、あまりピンと来ていなかったんですけどね」。
日本楽器の練習にも参加した。「3日間くらいでしたけど、きつかったですよ。ちょうど日本楽器が都市対抗に出なかった年で、最後にピッチャーは400トラックを10周とか……。立命館大学とのオープン戦があって最初、投げるかって言われたけど、いろいろ規則があったみたいで駄目になってスタンドで見ることになった。夏の暑い時期。昔の浜松球場のスタンドには桜の木かなんかがかかっていて木陰のところは気持ちがよくて居眠りしながら見ていたら注意されて『まだ入ったわけじゃないのに別にいいやないか』と思ったりもしましたけど、まぁお世話になるつもりでいたんです」。
ずっと調理師の道を勧めていた父も就職となる社会人入りにはもはや難色を示さなかったそうだ。「支度金が出るからだったかもしれませんが『お前が野球をやりたいんだったら、いいんじゃないか』みたいな感じでした。駄目とは言わなかったんです」。もはや日本楽器入りの方向で話はどんどん進んでいきそうな状況だったが、その“流れ”を止めるきっかけを作ったのが御殿場西・飯尾監督のひと言だった。
大きな決め手は左腕の人数「出られるチャンスある」
「日本楽器の練習から学校に帰ったら、監督に『よそのチームを見るのも勉強だから、お前が行きたくなくても大昭和(の練習)にも行って、どういうものか見てこい』って言われたんですよ。まぁ近いってこともあったんですが、これが僕の人生を変えたひと言になりました。大昭和に行ったら、日本楽器と対照的だったんですよ。都市対抗に出て、終わった後で雨上がりの室内練習場で練習していたんですけど、なんか練習での扱いもよくて、優遇してくれて……」
大きなポイントになったのは左投手の数だった。「その時の日本楽器には5人くらい左ピッチャーがいたんですが、大昭和は法大出身(で左腕エース)の池田(信夫)さんがちょうど(現役を)辞められるって話で左ピッチャーが誰もいなくなるってことだったんです。これなら出るチャンスは大昭和の方があるよなって思って、学校に戻って『すみません、僕、大昭和に行かせてもらえませんか』と言ったんです」。
日本楽器に実質“内定”していただけに御殿場西サイドは大反対だった。「そりゃあ学校にとってはとんでもない話ですもんね。『それだったら、もうどっちにも行くな』とか『大学に行け』とか『県外の社会人に行け』とか、ウチの父も反対して『北海道の新日鉄室蘭に行け』とか言われました」。それでも杉本氏は引かなかった。「みんなの反対を押し切って『僕は大昭和に行きます』と言って……。多分、その後、学校が日本楽器に頭を下げてくれたんだと思います」。
多方面に迷惑をかけながらも、杉本氏は最初に断っていた大昭和製紙に“大逆転”で入社した。そして、この時は別世界にしか思っていなかったプロ野球への道を、ここから切り開いていくことになる。