日本S制覇も指揮官から非情通告 銀座で「朝までどんちゃん騒ぎ」後…待っていた現実

元西武の杉本氏が振り返る初の日本シリーズ
西武などで活躍した杉本正氏(野球評論家)は、プロ2年目(1982年)にリーグ優勝と日本一を経験したが、中日との日本シリーズでは悔しい思いをしたという。第2戦(10月24日、ナゴヤ球場)で先発したが、6点リードの4回途中で交代。「4回裏2アウト、走者を(2人)出していましたけど、代打に(右打者の)大島(康徳)さんが告げられたところで降板になったんです。大差で勝っていたのに、ひどいでしょ」と苦笑しながら振り返った。
その試合、杉本氏は初回から走者を出しながらも、要所を締めて3回まで無失点に抑えた。問題の4回も、1死から6番の宇野勝内野手に四球、7番の中尾孝義捕手に右前打を許したものの、続く上川誠二内野手を左飛に打ち取り2死にした。次は9番の投手。中日の近藤貞雄監督は、4番手で登板していた安木祥二投手に代打・大島を起用した。ここで杉本氏は交代となった。
2番手の小林誠二投手は、大島を三振に仕留めると8回まで投げて勝利投手となった。試合は西武が7-1で大勝した。西武の広岡達朗監督は、その日の杉本氏の状態を見極めた上で交代を決断したようだが、点差があっただけに投げている方からしたらたまらない。「悲惨な降板でしたよ」と唇を噛むしかなかった。
杉本氏はこの件に関連して「僕は(2勝2敗で迎えた)第5戦(10月28日、西武)にも先発しましたが(0-0の5回に)大島さんに本塁打を打たれたんですよ。だから(第2戦の交代は)間違ってはいなかったんですけどね」と笑いながら付け加えたが、そんな結果を承知の上でも、6点リードでの4回途中降板の悔しさはずっと残っているのだろう。

12月のV旅行には参加せず、ベネズエラのウインターリーグへ
ちなみに第5戦は、3回2死二塁で中日・平野謙外野手の一塁線を破る打球を塁審がよけきれず足に当てたシーンが有名だ。中日が得点を逃したことで、シリーズの流れを変えた“石コロ事件”として語り継がれている。その試合に杉本氏は先発登板。白星は2番手に登板した東尾修投手に譲ったが、3-1の逆転勝利に貢献した。
西武は第6戦(10月30日、ナゴヤ球場)にも9-4で勝ち、4勝2敗で1958年以来、24年ぶりの日本一に輝いた。「優勝して、新幹線で帰って東京駅からバスに乗って銀座に横付け。朝までみんなでどんちゃん騒ぎしました」。悔しい出来事もあった日本シリーズだが、その瞬間は、すべてを忘れて盛り上がることができたようだ。
しかし、12月のハワイV旅行には行けなかったという。「僕と柴田(保光)さんの(投手)2人は、広岡さんに『ベネズエラのウインターリーグに行ってこい、語学の勉強に行ってこい』って言われたんです。だから(V旅行期間中も)そっちに行っていたんですよ」。
武者修行から「ハワイ寄ってきていいぞ」も…
首脳陣から期待されてのこととはいえ、杉本氏にとっては試練となった。「1か月半くらい行ったんですけど、投げたのは1試合だけでしたからね。レベルが高くて出る幕がなかったんです。柴田さんは球が速かったので抑えで起用されていたけど、途中で(所属チームの)監督がクビになってからは柴田さんも使われなくなった。給料は日本よりもあっちの方がよかったですけどね。日本に帰ったのは12月29日。球団から『お前たちはハワイ旅行に行っていないから、帰りにハワイに寄ってきてもいいぞ』って言われましたけど、もう早く帰りたかったので『いいです』って言いました」。
1試合に終わったベネズエラでの実戦登板も「2、3イニング投げただけだったかな」と話すが「ブルペンでは投げていたんでね、翌年(1983年)に12勝したんですけど、コンディションはよかったですよ。1月にはもうバンバン投げていましたから」と、海外での武者修行は3年目の飛躍につながったようだ。日本シリーズ第2戦での悔しさも、ベネズエラでの出来事もすべて次へのバネにしたのだ。
さらに、もうひとつ。「2年目のオフ、ベネズエラから帰って広岡さんに『寮から出してほしい』とお願いしたら『駄目だ。2桁勝ったらいい』って言われたんですよ」と明かし、その指揮官の言葉も3年目の発奮材料にしていた。それこそ様々な”広岡采配”によって杉本氏はプロでまた、ひと回りたくましくなったのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)