西武コーチが姉に説教「何を食べさせてる!」 2軍落ちで行われた“事情聴取”

元西武の杉本氏が明かす広岡達朗監督の“管理野球”
元西武左腕の杉本正氏(野球評論家)にとって、プロ4年目の1984年は試練のシーズンだった。「6月に初めてファームに行かされましたからね」。前年にプロ初の2桁となる12勝を挙げ、広岡達朗監督から退寮を許可された“1年目”にハマり込んだ不調モード。とばっちりは同居していた姉にも及び「(ヘッドコーチの)森(昌彦)さんから電話がかかってきて、僕のことでえらい怒られて……」と“管理野球”ならではの出来事を明かした。
プロ4年目の成績は22登板で7勝8敗、防御率3.83。12勝を挙げた前年より勝ち星は減ったが、3完封1無四球を含む5完投を記録した。1勝目は完封でマークするなど、4月は決して悪くなかった。だが、5月に3連敗。6月23日の南海戦(大阪)に先発し、2回2失点で降板すると登録抹消となった。この時点では4勝6敗、防御率4.12だった。
「(1軍投手コーチの)八木沢(荘六)さんに『明日から2軍に行け』って言われてね。初めてファームに落とされて、腹いせにゴルフの練習場に行った記憶があります」
悔しい気持ちでいっぱいだった。それだけではない。「森さんから家に電話がかかってきて、姉は『何を食べさせているんだ!』って怒られたそうなんです。そういうこともありましたね」と笑いながら振り返った。
プロ2年目のオフ、退寮を希望したが広岡監督に「駄目だ」と却下された。ただ「2桁勝ったらいいぞ」とも言われ、3年目に12勝をマークした。そして、そのオフに再度「(2桁)勝ったからいいですか」と指揮官に申し入れた。「そしたら『1人で住むのは駄目だ』みたいなことを言われたんですよ。で、近くに住んでいた『姉さんと一緒に住みます』って話になった」と語る。
「でも、信用されていなかったんですかねぇ。『連れてこい』と言われて……。それで姉は広岡さんと会ったんです。その時に、たぶん野菜とか、お肉の食べ方、出し方とか、いろいろ言われたんじゃないですかね。姉さんは『広岡さんって何ていい人なんだろう。食事のことまで心配してくれたよ』と言っていましたけどね。それで、広岡さんは(退寮を)承諾してくれたんですよ」
選手の食事面まで目を光らせる広岡監督の管理野球は、そこまで徹底されていたわけだが、そんなこともあっての4年目に不調に苦しみ、ついに2軍落ち。森ヘッドコーチからの杉本氏の姉への“事情聴取”の電話は、退寮までの流れを受けて、当たり前のように起きたことだった。そして2軍での再調整が始まった。
2軍での1か月半で取り戻した調子「184球を投げたこともあった」
「2軍監督の岡田(悦哉)さんには『1週間、好きなようにしろ、何もせんでいいわ』って言われました。『紅白戦をやるから相手ベンチの監督をやれ』とも。それは『いやいや、とんでもないです』と言って断りましたけど。要するに、まずはリフレッシュしなさいということだったと思います」。実際、1週間はのんびり過ごしたという。「その後はけっこう練習したと思いますよ。2軍の試合で184球を投げたこともあったんでね」。
2軍生活は約1か月半続き、8月に1軍復帰。20日の日本ハム戦(後楽園)では8回2/3を2失点投球で、2か月ぶりの5勝目を掴んだ。続く27日の近鉄戦(西武)は完封で6勝目をマーク。9月1日の日本ハム戦(後楽園)では8回1/3を投げて4失点も7勝目を手にした。苦しいシーズンだったが、2軍での再調整のおかげで、7勝8敗と何とか数字は残した。
「僕はのちに(ダイエーなどで)2軍コーチもやりましたけど、1軍の主力選手が2軍に落ちてきた時は、3日間くらい好きにしていいよって言っていました。2軍から1軍に上がって戻ってくる選手にはそうはしませんけど、本来1軍にいなきゃいけない選手だったら、ちょっとリフレッシュさせてあげた方がいいと思ってね」と杉本氏は話す。これは自身の経験を踏まえてのことで、それくらい4年目の2軍調整の日々、岡田2軍監督からの配慮がありがたかったのだ。
しかしながら、西武での選手生活はこの年で終わりを告げた。結果的には9月1日に挙げた7勝目が、西武でのラスト勝利になった。翌1985年1月下旬に中日へトレード移籍。杉本氏のプロ野球人生は新展開を迎える。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)