試合中に指揮官が「すぐに帰れ!」 先発日に父が急逝…登板準備から不可解な“予兆”

元中日の杉本氏が明かす亡き父に捧げた白星
星野仙一監督体制1年目(1987年)の中日は、巨人にリーグ優勝を許し2位に終わった。その年に左腕エースとして活躍したのが杉本正氏(野球評論家)だ。キャリアハイの13勝を挙げたが、その中には悲しみを乗り越えての勝利も。7月7日の阪神戦(金沢)でマークした9勝目は亡き父に捧げる白星だった。
この年の中日は、ロッテ時代に3冠王を3度獲得した落合博満内野手がトレード移籍で加入。ドラフト1位の近藤真一投手は、プロ初登板となった8月9日の巨人戦(ナゴヤ球場)で、ノーヒット・ノーランの快挙を達成するなど注目を集めた。“燃える男”星野監督の一挙手一投足が、チームを、そして球界全体を活気づけていた。
杉本氏にとっても、いろいろなことがあった1年だった。偶然にも乱闘騒ぎが起きた試合に先発しており、星野監督が初退場となった5月2日の広島戦(広島)では1失点完投勝利。6月11日の巨人戦(熊本)では4回で降板した直後、2番手の宮下昌己投手がウォーレン・クロマティ外野手の背中に死球を当て、殴打されて大揉めとなった。
「(熊本の)巨人戦は、山倉(和博)さんに本塁打を打たれ、星野さんがすごく怒っていたのを覚えています。(宮下の一件は)その後でしたね」と杉本氏は振り返る。続けて当時を思い出しながら「6月30日に浜松の広島戦で……。父親が亡くなった時なんですけども……」と続けた。この日、先発して4回4失点でマウンドを降りてから、その事実を知ったという。
「その日は試合前からしっくりこなくて、スパイクの紐が切れたり、途中でユニホームを着替えたりしたんです。降板した後にマネジャーから『試合前に電話があった。先発前に嫌がらせかもしれないから言わなかったけど電話番号は聞いてあるから、ちょっと確認をとってくれ』と言われたんです。まず家に電話したんですけど、出なかったので、その番号に電話したら近所の人だったんです。『お父さんが亡くなったよ』という話で……」
野球で注目されたため方向転換したが、杉本氏は当初、父親の勧めで調理師の道に進むつもりだった。「鮎釣りとかにもよく連れていってもらいました」。御殿場西高へ進学する時も、社会人野球・大昭和製紙に入団する時も、西武からドラフト3位で指名された時も相談した。最後は温かく送り出してくれたし、応援してくれた。そんな父親との突然の別れだった。
登板当日の悲報「あぐらをかいた状態で亡くなっていた」
「父は釣りに行く時に階段から落ちて腰を痛めて、体調はよくなかったんです。それで7月1日に(静岡の実家から)名古屋に呼んで病院に連れていくつもりでした。妹には『俺が名古屋駅まで迎えに行くから、新幹線に乗せてくれ』って頼んでいたんです。しかも6月29日の夜には『(6月30日の)浜松の試合で投げるけど、見に来る? 親戚の人は見に行くと言っているけど、どうする?』って聞いたら『俺はいいや』って話もしていたんです」
浜松での試合当日も電話を入れたそうだ。「30日の10時くらいに電話したんですけど、出なかったんですよ。それで妹に電話して『(父に)電話したら出ないけど、明日(7月1日)は新幹線に乗せてくれよ』って言ったんです。その後、12時くらいにも(父に)電話したけど出ないんで、ちょっと気になってはいたんですけどね」と振り返る。
「母はパートに行っており、おにぎりを2個、作っておいていたそうです。父は酒を飲むので、焼酎をなみなみ1杯と水をなみなみ1杯が置いてあり、手をつけずにあぐらをかいた状態で後ろに倒れて、そのまま亡くなっていたそうです。母が夕方にパートから帰って、変な格好で寝ているなと思ったら、そういうことで……」。杉本氏が広島戦に先発する直前くらいに分かったことで、家族に代わり、近所の人が球団に電話を入れていたようだ。
「降板した後にそれを知って、試合中に星野さんに言ったら『すぐに帰っていい、行け!』って。そのまま新幹線で浜松から三島まで。あの時の新幹線の時間、長かったですね……」。それでも杉本氏は先発ローテーションを崩さなかった。「お通夜と葬儀を終えてチームに戻りました。星野さんに『葬儀の時は正座しなかっただろうな。今の時代は椅子に座ってできるんだから』って言われたのも覚えていますね」。
浜松の広島戦から中6日で7月7日の阪神戦(金沢)に先発した。7回1/3を投げて1失点で9勝目を挙げた。亡き父に捧げる白星だった。
星野監督から思わぬ提案「好きなだけ投げさせてやるわ」
この年の杉本氏は、シーズン前半だけで10勝を挙げた。「どこまで勝てるかって思ったんですよ。15くらいは勝てるやろってね」。だが後半は3勝止まり。「星野さんから『お前は優勝したくないのか。西武と日本シリーズしたいだろ、まだ頑張れ』ってハッパをかけられたんですけど、急に勝てなくなったんですよね」と無念そうに話した。
続けて「星野さんが監督になられたシーズン、僕と(鈴木)孝政さんと(小松)辰雄と(郭)源治の4人だったかな。それぞれが(成績で)勝負しようという話になったんです。僕の場合は前の年(1986年)が12勝だったので、13勝だったら“勝ち”。だけど、なかなかあと13勝目が遠くてね。終わりがけの(10月3日の)広島戦に先発する時、野手を集めて『今日は賞金を出しますから勝たせてください』って言ったんです。その年の先発はそれが最後ということでね」と明かした。
「ただ、その試合は勝っていたのに、僕が(広島)小早川(毅彦内野手)に本塁打を打たれて逆転負けしたんです。ああ、終わったって思ったら、星野さんが『(10月11日の)ヤクルト戦にお前の好きなだけ投げさせてやるわ』と言ってくれてね。それで13勝できたんです」。
そのヤクルト戦は1失点完投勝利だった。そんな忘れられない多くの出来事が重なった1987年を経て、杉本氏は翌1988年、リーグ優勝を中日でも味わい、日本シリーズでは古巣の西武と対戦することになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)