敵将からトレード打診→直後に成立 指揮官から「これでいいんだろ!」も…最後に知った本心

西武など3球団で活躍した杉本正氏【写真:山口真司】
西武など3球団で活躍した杉本正氏【写真:山口真司】

杉本正氏は2度目のトレードでダイエーに移籍

 2度目のトレードを経験した。NPB通算81勝左腕の杉本正氏(野球評論家)はプロ10年目の1990年シーズン途中に3年目右腕・高島覚投手とともに中日からダイエーに移籍した。南海時代の1983年に18勝をマークした右腕・山内和宏投手との2対1の交換トレードで6月15日に発表された。事前にダイエー・田淵幸一監督から電話で“打診”され、中日・星野仙一監督からは「ブチ(田淵監督)を助けに行ってやれ」と送り出されたという。

 杉本氏は1985年キャンプ前に大石友好捕手ととともに田尾安志外野手との2対1の交換トレードで西武から中日に移籍。1986年に12勝、1987年には13勝と2年連続2桁勝利をマークし、左腕エースとして活躍したが、中日がリーグ優勝を果たした1988年は、春季キャンプ中に左肘を痛めた影響もあって6勝止まり。その後も左肘の状態が、何かしらしっくりこない日々が続いた。

 1989年のオーストラリアキャンプでは、スクリューボールにも挑戦したが、うまく行かず断念。「スクリューボールは(同じ左腕の)山本昌が(1988年のドジャース留学中にマスターし)それでよくなったこともあったし、オーストラリアに(ドジャース会長補佐で山本昌の留学を支えた)アイク生原さんが来ておられたので、僕もやってみたんですけど、リリースのタイミングとかが……。もうちょっと根気よくやればよかったんでしょうけど、諦めてしまったんです」。

 その年(1989年)はシーズン開幕後も不調モード。途中からリリーフに回ったり、成績はさらに下降し、自己ワーストの3勝だった。「そのオフ、僕は秋季練習メンバーに入っていなかった。僕と仁村のお兄ちゃん(仁村薫外野手)と岩本(好広内野手)と鈴木康友(内野手)の4人。“俺らは(現役が)終わりなんじゃないか”っていうような話をした覚えがあります。そしたら次の年(1990年)もみんないて。“あれ? まだいるやん”って思いましたけどね」。

田淵監督から「一緒にやろうや、どうや?」

 そして、1990年のシーズン途中の6月に杉本氏にとって2度目のトレード経験となるダイエーへの移籍が決まった。中日・星野監督とダイエー・田淵監督による“友情トレード”と言われた。「あの年の僕は肘が悪くて開幕からファームにいたんです。福田(功)さんが2軍監督でね、やっと投げられる状態まで上がってきた頃でした」と言い、そんな時に田淵監督から電話があったそうだ。

「西武時代の僕と田淵さんの関係もあってのことで、ちょっとジョークを交えた感じで『お前、(ダイエーで)一緒にやろうや、どうや?』って聞かれたので『そりゃあ、僕も田淵さんとは一緒にやりたいですよ』と答えたんです。そしたら『わかった。仙ちゃん(中日・星野監督)に言うから』って。僕は『それで、もし(トレードが)決まらなかったら、僕の中日での立場がないじゃないですか』と言ったんですけど『大丈夫、大丈夫』って言われて……」

 それからしばらくしてトレードが本当に成立した。「(移籍)通告は2軍で受けました。(対阪神2軍戦で)甲子園にいた時でした。肘もよくなって、その日はリリーフで登板予定だったので『(中日で)最後だから投げさせてください』って頼んだんですけど『いやいや、怪我されたら困るから、すぐ名古屋に帰れ、星野さんのところに挨拶に行け』と言われて、(名古屋に)向かいました」。星野監督には“闘将節”で背中を押されたという。

星野監督から「ブチを助けに行ってやれ」

「ご挨拶に行ったら、いきなり『おい! これでいいんだろ! こうしてほしかったんやろ』って言われたんですよ。『いやー』って言いましたけどね(笑)。それから『ちょっと、ブチを助けに行ってやれ』とか、そういう言い方をされました」と杉本氏は当時の星野監督の表情を思い浮かべるように振り返った。「田淵さんが僕に電話された時はたぶん、もうできていた話だったと思いますよ。だって僕が言ったくらいでトレードが決まるわけがないですからね」とも付け加えた。

「(西武、中日、ダイエーと)だんだん西へ、西へと来たわけですけど、たまたまウチの嫁が福岡出身だったし、福岡に行くことへの抵抗感もそれほどなかったです」。心機一転、杉本氏はダイエーで再起を目指した。背番号は28になった。だが、肘の状態は一進一退だった。「自分の体型的に丸い数字の方がいいと思って(提示された中で)28を選んだんですけど、当時のホークスでは怪我する人が結構多かった番号みたいで……」と気にするほどだった。

 8月8日の近鉄戦(平和台)で移籍初勝利を完封で飾り、15日の近鉄戦(平和台)も1失点完投で2勝目と2試合連続で抜群の投球を見せたものの、ホークス1年目は16登板、3勝7敗、防御率4.91の成績で終わった。好調が続かなかった。どうしても左肘痛が邪魔をした。移籍2年目の1991年9月には「もう痛くて駄目」と手術も決断。3球団目のダイエーでは試練の時期の方が多くなった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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