敵将から説得3年で「もう往生しろ」 “陥落”でライバル球団へ…待ち受けた「松坂フィーバー」

1995年から3年間、ダイエー2軍投手コーチを務めた
元西武、中日、ダイエー左腕の杉本正氏(野球評論家)は1995年シーズンからダイエー2軍投手コーチに就任し、指導者人生をスタートさせた。1998年からは西武・東尾修監督の下で1軍投手コーチを務め、1999年にはドラフト1位の怪物ルーキー・松坂大輔投手のデビューにも関わった。「キャンプでは人が多くて大変でしたけどね」。当時、話題になった“ニセ松坂”を作っての移動作戦も発案するなど尽力した。
杉本氏はダイエー在籍時の1993年限りで13年間の現役生活に終止符を打った。1994年は評論家として活動し、1995年から1997年までは王貞治監督体制のダイエーで2軍投手コーチを務めた。「(ダイエー2軍監督の)有本(義明)さんが、球団に僕をコーチとして(チームに)戻そうという話をしてくれて、やらせてもらうことになったんです」。それが1994年オフのことだった。
「その1週間後に東尾(修)さんが西武の監督に決まったんです。『1週間、違ったら、西武にお前を呼んだのにな』みたいなことを言われましたけど『僕はこっち(ダイエー)で頑張ります』と言いました」
尊敬する先輩であり、師匠でもある東尾氏からの“誘い”も断ち切って、先に誘ってくれたダイエーを優先。2軍投手コーチとして指導者人生をスタートさせたが、東尾氏も杉本氏の“獲得”を諦めたわけではなかった。
「(ダイエー2軍コーチの)2年目(1996年)の終わりに『お前、西武に来い!』って言われたんです。その時も『いえ、いいです。僕はこっち(ダイエー)にいます』と断ったんですけど、東尾さんには『あー!?』とか言われたんですよね。3年目(1997年)の終わりにも『もう往生しろ』って言われたので『わかりました。西武の方から(ダイエーに)言ってください』と……」。毎年のように東尾監督から口説かれて、ついに杉本氏が“陥落”した形だった。
「西武の浦田(直治)球団本部長から(ダイエー専務の)根本(陸夫)さんに話をしていただきました。僕も根本さんのところに挨拶に行って『行け!』と言っていただいたので、西武に行くことになったんです」。1980年ドラフト3位で西武に入団。プロ5年目の1985年春季キャンプ直前にトレードで中日に移籍して以来の古巣復帰だった。森繁和氏との2人体制の1軍投手コーチに就任した。かつて西武投手としてともに戦った先輩の下で杉本氏は全力を注いだ。
西武コーチ1年目の1998年は日本シリーズこそ横浜に屈したものの、いきなりリーグ優勝を経験した。「当初はブルペン担当でしたが、途中からベンチ担当もやらせてもらいました。東尾さんも僕には言いたいことを言われるんでねぇ……。ピッチャー連中も頑張ってくれましたよ」。まだまだ学ぶことの方が多かったが、そんな年のオフに新たに加入してきたのが松坂だった。
1998年の春夏甲子園を連覇した横浜高のエース。夏の甲子園決勝の京都成章戦ではノーヒット・ノーランで優勝を決めた怪物右腕がドラフト1位で西武に入団した。そんな将来の日本球界を背負う逸材を杉本氏は加藤初投手コーチとともに指導することになった。当時を振り返って、杉本氏はまず「人が多くなって大変でしたね」。甲子園を沸かしたスーパースターの人気はハンパではなく“大輔フィーバー”と呼ばれる社会現象まで起き、1999年の西武・高知キャンプには多くのファンが押し寄せた。

“影武者作戦”も発案して話題に
「本球場から松坂が移動するにしても、ずっと追いかけられていましたからね」。そこで杉本氏は“影武者”の活用を提案したという。「松坂の背格好によく似ていた(1996年ドラフト3位右腕の)谷中(真二投手)に『ちょっと大輔のジャンパーを着て、帽子を被って、行けぇ!』って言ってね。そしたら、みんな(谷中に)付いていきましたもんねぇ」。この“ニセ松坂作戦”は大いに話題にもなった。ちなみに谷中は2001年に移籍した阪神で7勝を挙げて活躍するなど4球団を渡り歩き、2010年までプレーした。
松坂に関してはやはりプロ入り当初からモノが違ったそうだ。「他の投手と対等のレベルのピッチングができていたし、物怖じしないというか、その雰囲気もそうでしたね」と杉本氏は語る。「オープン戦で、確か巨人に打たれたんですけど、その時も彼は、結構投げ込んだりして修正しました。それを機にちょっと変化してきた部分もあって、(首脳陣の間では)松坂を(シーズン開幕後)どこで投げさせるかという話になったんです」。
怪物右腕のデビューは開幕4戦目、敵地・東京ドームで行われる4月7日の日本ハム戦に決まった。「球団には、本拠地で放らせてほしいという意見があったみたいですけど、東尾さんは角度のあるマウンドの方が松坂には合うだろうということで東京ドームを選択したそうです」と杉本氏は説明した上で「“いい日やね”って思いましたよ」と笑みをこぼした。完封勝利で飾った杉本氏自身のプロ初登板も1981年の4月7日。舞台は後楽園球場ながら相手も同じ日本ハムだったからだ。
そして、こう続けた。「僕が現役、コーチ時代を含めて凄いなと思ったのが、その時の大輔のブルペンでの投球練習です。見たことがないような、すっごい、とんでもない球を投げていました。オープン戦では想像もつかないような球を投げていたので、すごいピッチャーだなと思いましたよ」。試合でも初回2死から日本ハムの3番打者・片岡篤史内野手を155キロの速球で空振り三振に仕留めるなど、素晴らしい投球の連続だった。
7回を終えて西武が5-0でリード。杉本氏は自分と同じ完封デビューを期待した。「大輔にも言ったんですよ。『完封せい!』って」。だが、8回に日本ハム・小笠原道大内野手に2ランを浴びて、8回2失点で降板。「『杉本さんが余計なことを言うから打たれたやないですか』って言われた記憶も残っていますけどね」と笑ったが、そんな松坂の白星デビューに接したのも一生の思い出となっている。
5月16日のオリックス戦(西武ドーム)ではイチロー外野手と初対戦し、3三振を奪って「自信が確信に変わりました」との名言を残した松坂は、その年16勝5敗、防御率2.60の堂々たる成績で最多勝と新人王に輝いた。「シーズン中にちょっと勝ち星が止まった時があって、いいときと見比べたら体重移動する位置が、重心の位置が、ちょっと早かった。大輔が意図的にテークバックを小さくしていたので、元に戻したらどうって話したり。そんなこともありましたね」。最高の逸材との出会いは杉本氏の指導者人生にも大きなプラスとなった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)