ドジャーブルー誕生にあった「星条旗焼却未遂事件」 野茂英雄が海を渡る前…“仕掛け人”が明かした半世紀前の記憶【マイ・メジャー・ノート】

1995年からドジャースでプレーした野茂英雄氏【写真:アフロ】1995年からドジャースでプレーした野茂英雄氏【写真:アフロ】

ドジャースを支えた元敏腕GMのフレッド・クレア氏が回顧

 1980年代終わりから90年代終わりにかけ、名門ドジャースを舞台裏で支えた敏腕GMフレッド・クレア氏へのインタビューが実現した。10年前に発症した癌を克服し、今は、ロサンゼルス近郊の閑静な地で余生を送っている。これまで日本メディアとの接触はほとんどなかったクレア氏は、「Dodger Blue の真実」から「トルネード伝説」へと続く“あの頃のドジャース”を惜しみなく開陳した。【全2回の前編】

「ドジャーブルー」はどうして、「ドジャーブルー」と呼ばれるようになったのか。

 読んで字の如く、チームの色名であるこの言葉の出自に疑問を持つドジャースファンはまずいないだろう。しかし、確かな由来がある。それを明らかにするためには、今年で50周年となった「星条旗焼却未遂事件」の史実に立ち寄る必要がある。

 時はアメリカ建国200周年を祝う1976年。シーズンが開幕してからまだ間もない4月25日だった。ドジャー・スタジアムで行われていたカブス戦で、外野席からフィールドへ乱入した2人の男(親子)が、アメリカ国旗を外野の芝生の上で燃やそうとした前代未聞の事態が起きた。これを救ったのが、当時カブスの中堅手だったリック・マンデイであることはよく知られている。

 春うららかな日曜日のデーゲームで起きた事件をすぐに理解したファンは多くはなかった。そこで機転を利かせたのが、時の広報部長で後に名GMとして知られたフレッド・クレア氏だった。

GMとしてドジャースを支えたフレッド・クレア氏(左)【写真:アフロ】GMとしてドジャースを支えたフレッド・クレア氏(左)【写真:アフロ】

「ゴッド・ブレス・アメリカの大合唱が始まったのです」

 90歳になったクレア氏が、半世紀前の記憶を解きほどく。

「広報部長になって4年目の出来事で、私は記者席にいました。リック・マンデイが国旗をつかみ取って走り抜ける前の動きから見ていたので、すぐに電光掲示板を担当するジェフ・フェレンザーにこれから言う文字を打ってくれと連絡しました。“Rick Monday…You Made a Great Play.”が浮かぶと、2万5167人の観客は総立ちとなり『ゴッド・ブレス・アメリカ』の大合唱が始まったのです!」

 次の声もまた力強かった。

「文字が浮かんだ直後、記者席の電話が鳴ったんです。当時のウォルター・オマリー会長からで、『ドジャー・スタジアムの歴史に刻まれる偉大な瞬間の一つになるな』って言ってくださった。本当に嬉しかったですよ」

 リック・マンデイが星条旗を救った瞬間を激写した地元紙「ヘラルド・イグザミナー」のカメラマン、ジェイムス・ロアークの1枚は同年のピュリツァー賞にノミネートされた。

リック・マンデイが星条旗を救ってから2026年で50年を迎えた【写真:アフロ】リック・マンデイが星条旗を救ってから2026年で50周年を迎えた【写真:アフロ】

ファンの心をつかむ企画を

 ここでフレッド・クレア氏の略歴を紹介しよう。

 北カリフォルニアのサンノゼ州立大でジャーナリズムを専攻し、卒業後はロサンゼルスの小さな新聞社に入ると、プレステレグラム社に移り2年間ドジャースの番記者を務め、1969年7月にドジャースの広報担当となった。

 広報部とプロモーション部を束ね、ファンの心をつかむ企画をずっと考えていたクレア氏は、マンデイの「星条旗損壊阻止」から半年が過ぎた冬のある日、ふと2つの単語を思いついたという。それが、全米の野球ファンに深く浸透していく“Dodger Blue”だった。

 行き場をなくしたまま、胸裡(きょうり)をさまよい続けていたその言葉が、やっと語りかけられる日本のメディアを見つけた、という気がするほど、クレア氏の声は弾んでいった。

「この国の主要大学が、いかにしてファンとの間に一体感を育むことができたのかということに私はすごく関心があって、大学のスポーツのような雰囲気を作りたいなってずっと思っていたんですよね。スタンドで応援する在校生や地元のファンの姿をテレビで見たことがあるでしょう。あの熱気は相当なもんですよね。見ているだけで呼吸が変わってきます。で、フットボールの名門ノートルダム大学はゴールド、バスケットボールの名門インディアナ大学はレッドというふうに、チーム独特の個性の中心には色彩があるなって気づいたのです。ならば、名門ドジャースのアイデンティティにも色を加えたらどうだろうかとなって。“Dodger Blue”はこうして生まれました」

「私を切ってみろ。ドジャーブルーの血が出るぞ」

 1977年のシーズン開幕は、「ドジャーブルー」のマーケティングを打ち出す絶好のタイミングだった。前年の9月に監督に就任し、歯に衣着せぬ情熱的なキャラクターが立つトミー・ラソーダがフル稼働する年で、今も色あせない「私を切ってみろ。ドジャーブルーの血が出るぞ」の名言も飛び出した。ラソーダ監督こそがロスの街中にドジャーブルーを広めることができる適任者だとしたクレア氏の読みは的中した。

1976年にドジャースの監督に就任したトミー・ラソーダ氏(左)【写真:アフロ】1976年にドジャースの監督に就任したトミー・ラソーダ氏(左)【写真:アフロ】

 私は、虚を突かれた。クレア氏の色彩戦略は、外野フェンスをも染めていたのだ。

「リック・マンデイがヒーローになった映像を見たことはありますか? 球場の外野フェンスはまだブルーではありませんでした。あまり印象に残らない、なんか淡い色でしたよね。実は、“ドジャーブルー”戦略を推進するために、球場も色付けをしていきました」

 もっとも、マーケティング戦略だけではファンはついてこない。最高の売りになるのは「強さ」だ。幸いにして、当時のドジャースは、スティーブ・ガービー(一塁手)、デイビー・ロープス(二塁手)、ビル・ラッセル(遊撃手)、ロン・セイ(三塁手)が鉄壁の内野を構築し、プレーオフの常連になっていた。プロモーションで作った野球の文字が一切ないバンパーステッカー「Dodger Blue」「Think Blue」がファンの間で大人気となり、ドジャースの代名詞になった。

 クレア氏は、当時の心境を述懐する。

「毎日、1つのことしか考えていませんでした。どうすればドジャースを良くできるだろうか、でした。それは私だけではなかったはずです。みんなで力を合わせることが実感できる毎日でした」

ピーター・オマリー氏の経営姿勢

 1970年から98年の球団売却まで29年間にわたりドジャースのトップを務めたピーター・オマリー氏の家庭的な温かみのある経営姿勢は「ドジャー・ウェイ」と呼ばれ、経済誌フォーチュンによる「働きやすい会社ベスト100」で3度、トップス社が発表する年間最優秀団体に5度選出されている。ドジャー・ウェイなくしてドジャーブルーの発想は生まれてこなかったのかもしれない。

 フレッド・クレア氏のキャリアの白眉は、1987年4月に黒人蔑視発言で失脚したアル・カンパニスGMの後を継いだ翌年に訪れる。ワールドシリーズで強敵アスレチックスを4勝1敗で撃破し、7年ぶりの世界一奪還を果たした。「私の準備はできていたのです」。広報とプロモーションを仕切る日々の中で、球団首脳の会議からスカウトの戦略強化会議まで参加することを許され、勝てるチーム作りのコツを学び取っていったクレア氏は、訝しげなメディアの視線をGM就任2年目で斥けたのである。

1988年、7年ぶり6度目の世界一となったドジャース【写真:アフロ】1988年、7年ぶり6度目の世界一となったドジャース【写真:アフロ】

 常にメジャーの頂点を目指すドジャースには、もう一つ高い目標があった。異国の才能ある選手に門戸を開くこと。野球を世界に普及させる夢を持っていたピーター・オマリー会長に、辣腕で知られるアーン・テレム代理人から「日本のダン・ノムラから若き剛球右腕を売り込みたいと相談された」との連絡が入った。その投手の名を「ヒデオ・ノモ」と言った――。【後編へ続く】

【マイ・メジャー・ノート】
 1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。

○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。

(木崎英夫 / Hideo Kizaki)

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