野茂英雄獲得に奔走した当時のGM、フレッド・クレア氏の回顧
日本人メジャーリーガーのパイオニア、野茂英雄に門戸を開いたのは名門ドジャースだった。時のピーター・オマリー球団会長の最側近として右腕獲得に尽力したのが、上級副社長兼GMのフレッド・クレア氏だった。これまで日本のメディアには多くを語ってこなかったクレア氏は、28年前の出来事――L.A.と日本を席巻した「NOMOフィーバー」誕生と終焉、そして自身の突発解雇の予兆――を鮮やかに想起した。【全3回の中編】
◇前編◇ドジャーブルー誕生にあった「星条旗焼却未遂事件」 野茂英雄が海を渡る前…“仕掛け人”が明かした半世紀前の記憶【マイ・メジャー・ノート】
名うての代理人アーン・テレム氏からピーター・オマリー会長に電話が入ったのは1995年の1月半ばを過ぎた頃だった。
「まだ無名ですが、日本の代理人ダン・ノムラから、ヒデオ・ノモという投手の契約を手伝って欲しいという相談がありました。もし興味があれば彼に協力しようと思います」
クレア氏にもすぐに電話の内容が伝えられた。
「入手した情報からピーターも私も契約に値する投手だと判断しました。既にマリナーズ、ジャイアンツ、さらにはヤンキースも興味を示していると聞いたので、先に獲られるのは避けたいという気持ちが強かったですね」
メジャー行きへの担保となった「任意引退同意書」
野茂がここまで来るのに、日本球界の諦念に風穴を開ける行動を起こしたことは広く知られている。94年オフの契約更改の席で、当時は認められていなかった複数年契約を求め交渉は難航。鈴木啓示監督との確執もあった。関係がこじれた近鉄との修復は極めて難しくなった。結局、任意引退となる。しかし、突きつけられた「任意引退同意書」がメジャー行きへの担保となるのである――。
選手の身分を規定する「統一契約書」によると、野茂の保有権は近鉄が持ち、国内の移籍には近鉄の承認が必要になる。だが、任意引退には、海外移籍にも適用されるという文言がない。つまり、野茂が捺印した「任意引退同意書」は、米国では「フリーエージェント」と解釈され、実際、その覚え書きもあった。当時26歳だった野茂がFA権を取得するまでには4年半(5シーズン)が必要で、入札制もまだない時代だった。
1995年2月13日(日本時間14日)、ロサンゼルス市内の「ホテル・ニューオータニ」(現ダブルツリー)で、野茂英雄の入団会見が開かれたが、それ以前の協議でクレアGMはこう伝えている。
野茂がド軍に伝えた唯一の条件
「ダンはメジャー契約を求めました。ノモとの契約はもちろん考えていました。が、マイナー契約からのスタートを条件にしました。理由は、ドジャースにはメジャー契約は勝ち取るもので与えられるものではないという理念があるからです。メジャー戦力の40人枠に入った時点でメジャー契約に切り替わることをノモに伝えると、ダンを介して彼が言ったのは『望むのはただ1つ。そのチャンスを与えてくれますか』でした。先発ローテ入りするためにできる限りのチャンスを与えると私は約束しました」
前年からのストライキの影響で3月にずれ込んだキャンプで野茂は順調に調整を進め、オープン戦、そしてマイナーでの登板で実力を示すと、いよいよメジャー登板の機会が与えられた。1995年5月2日(同3日)のジャイアンツ戦に先発。敵地キャンドルスティック・パークのマウンドに立つと、主軸のバリー・ボンズに安打を許さず5回を投げ1安打無失点、7奪三振の快投を演じた。勝敗は付かなかったが、歴史的な初登板は、1月に起きた阪神・淡路大震災で重い空気が漂う日本列島に希望の光を射し入れた。
野茂の初勝利は、メジャーデビューから7試合目の登板となった6月2日のメッツ戦。8回2安打、1失点だった。「みんなが祝福してくれたので、気持ちが伝わってくるものがあった」と素直な気持ちを表している。
「ノモはドジャースの先発投手になったばかりか、あの年のオールスターで先発して、翌年にはノーヒットノーランもやってのけました。デビュー年に新人王を獲り3季連続の2桁勝利です。努力と勇気で突き進みメジャーで先駆者の地位を確立しました。彼のあとには、韓国人のパク・チャンホ(朴賛浩)もデビューをしました。ノモの功績はとてつもなく大きいのです」
突然の退団会見「環境を変えることが必要だと思う」
偉大な投手、野茂英雄の活躍の軌跡をここでなぞるつもりはない。この点は他に譲り、これまで語られてこなかった野茂の退団について、トレードを画策したクレア氏本人に核心を描き出して欲しいと考えた。
1998年6月1日、ドジャースの試合はなく久しぶりのオフが楽しめるはずの月曜日だった。正午まであと数分だったと記憶している。電話が鳴った。ドジャース広報のグレース森野さんからだった。「本日、報道関係者の皆さんに大事な発表があります」。理由は明かさなかった。会見まで1時間足らず。車で球場に向かうと、会見場は既に日米報道陣でいっぱいになっていた。
間もなくして、フレッド・クレアGMは、野茂、団野村代理人、そして奥村通訳と現れた。「ノモが退団を希望し戦力枠の40人から外すDFAの措置を取りました」と切り出すと、会見場は騒然となった。いつもの淡々とした表情が、心なしかこわばっていた野茂は「今の自分には環境を変えることが必要だと思う」と新天地を求めた1番の理由を言葉にした。
会見の中でクレアGMは、野村氏からの要望で5月31日にオマリー会長を交えた話し合いの場を持ったことを明らかにし、野茂がトレードを望んでいることを聞かされた。しかし、そこで驚くことはなかった。実は、1か月前のシカゴ遠征で、野村氏からその意向が伝えられていた。
会見後、部屋に戻ると、8球団から問い合わせがあったという。DFAでは、発表から10日間(現在は7日)は野茂をトレードすることができ、成立しない場合はマイナー行きを通告できる。ただ、野茂はこれを拒否してFAとなる権利があった。
野茂に関心を示しながらも、以後、連絡が途絶えるGMもいて、交渉はスムーズにはいかなかった。野茂のコンディショニングを考えれば、一刻でも早い成立が望ましかった。そして、会見から3日後の6月4日、それぞれ2投手を交換要員にしたメッツとのトレードが成立した。
野茂が希望したトレード…クレア氏「今でも分かりません」
野茂にとってメッツは最適解だった。この年、近鉄で懇意にしていた吉井理人が入団し、5月半ばにマーリンズに放出された元相棒のマイク・ピアザが再トレードで加入していた。さらには、前年までの投手コーチだったデーブ・ウォレスがGM補佐になっていた。
クレア氏は、「野茂トレード劇」の全体像を提示した。
「ノモが、メッツを希望したという報道が多くありましたが、そうではありません。彼はただ『トレードを希望します』と言っただけです。ピーターと一緒に慰留はしましたが、『自分を信頼してくれる勝てるチームに行きたい』の意思は固かった。言葉では尽くせない多大な貢献をしてくれたノモです、最後はその意思を尊重しました。でも、正直、彼が一体どうしてドジャースを出たい気持ちになったのかは、腑に落ちなかった。それは今でも分かりません……」
クレア氏は元新聞記者らしく、確かな根拠が見えない野茂の退団理由にキッパリと分からないと言った。ただ、1998年は、オマリー会長が米メディア大手のFOXグループに球団を売却した年で、伝統球団がこれまで培った戦力の構築法を覆す上層部の言動が露見した。看板選手だったマイク・ピアザの電撃放出はそれを象徴している。
全米の野球ファンを沸かせその後の日本選手のメジャーリーグ挑戦に道を開き、再び新しい道に挑むことになった野茂英雄との惜別は、フレッド・クレア氏が辞任を考えたという「GM飛ばし契約」と交錯していた――。【後編へ続く】
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【マイ・メジャー・ノート】
1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)