元GMのクレア氏が振り返る1998年6月の退団劇
1998年6月1日。野茂英雄は自らの決断でドジャースを去った。獲得から喪失まで野茂の約3年半を見届けた当時のGMフレッド・クレア氏は、単独取材の最後で、「野茂退団劇」の全容を明かした。【全3回の後編】
野茂英雄のドジャース退団は「腑に落ちなかった」 当時のGMがいま明かす“真相”…オフに行われた突然の会見【マイ・メジャー・ノート】
報道陣に発表する前日に代理人の団野村氏と野茂は、前年まで球団会長を務めていたピーター・オマリー氏とクレア氏との話し合いの席で「自分を信頼してくれる勝てるチームに行きたい」と意思表明をしたものの、その思いに至った理由は明確にしていない。
退団の会見を振り返っても、ない。
「メジャーリーグ入りの夢をかなえてくれたドジャースには本当に感謝しています。チームは気を遣ってくれました。細かいことはいくつかありますが、プレーしやすい環境も整えてくれました」
感謝の言葉を重ねながら、野茂は真直な理由については述べていない。だが、前日の「自分を信頼してくれるチームに行きたい」は、退団会見で呑み込んだ思いとつながっているのは間違いないだろう。憧れたドジャースは、もう以前のドジャースではない。
午前3時の電話が野茂の決断を暗示していた――。
ド軍がランディを狙う…米球界を駆け巡ったトレード情報
前年のオフに受けた右肘の遊離軟骨除去手術の影響もあってか、メジャー4年目の野茂は、開幕から安定を欠く投球が続いていた。地元メディアは野茂に対して厳しい論調を取るようになっていく。その逆風が強くなった5月下旬だった。前年までLAタイムズで健筆をふるっていたUSAトゥデイのボブ・ナイチンゲール記者が発した「ランディ・ジョンソンはドジャースにトレード」がネットに上がった。交換要員は「野茂とホランズワース外野手」と書かれていた。
「5月28日のことでした。ダン・ノムラは記事の事実確認を急ぎたかったのでしょう、こちらの午前3時に日本から電話をしてきました。『ネットに出ているのは決まったことなのですか?』と聞いてきました。私は、それは事実ではなくノモのトレードはないと即答しています。ダンは、すぐにロスに飛ぶから会いたいと言うので来てもらうことにしました」
この頃、クレア氏とボブ・グラジアーノ新球団社長は、確かにジョンソンの獲得を視野に入れた意見交換を何度かしている。実際にマリナーズのウッディ・ウッドワードGMと、ジョンソンのトレードについてやり取りをしているが、野茂の名は俎上に載らなかった。相手が求めたのは将来性豊かなエイドリアン・ベルトレ内野手とダレン・ドライフォート投手だった。クレアGMは拒否しトレードは破談になっている。
電話を切ったあと、クレア氏の脳裏をこんな違和感がかすめた――「交換要員に誤りはあったが、トレードの情報が出ている……」。
GMも知らなかったピアザ⇔シェフィールドの電撃トレード
野茂退団の11日前には、ドジャース生え抜きのスター捕手マイク・ピアザが、マーリンズに電撃トレードされるという大騒動が起きている。この時にも情報が一部メディアに漏れていた。グラジアーノ社長が選手獲得の際に予算を含めた諸条件のお墨付きを得るFOXの重役が、雑誌の記者から聞いたことが後に明らかになっている。
ドジャースファンを震撼させたピアザの放出は、5月15日に正式発表された。
ドジャースからはピアザとトッド・ジール内野手が移り、マーリンズからは強打のゲーリー・シェフィールド外野手、ジム・アイゼンライク外野手、ボビー・ボニーヤ内野手、チャールズ・ジョンソン捕手、そして若手のマイナー投手が交換要員となった。しかし、“世紀のブロックバスタートレード”は、クレアGMを飛び越してグラジアーノ社長とFOXの重役主導によるものだった。百戦錬磨のGMを無視した結果、舞台裏ではドタバタ劇が展開された。
シェフィールドの契約には「トレード拒否権」が含まれていた。これを解除しなければ交渉は進められない。14日に発表される当初の予定は急きょ変更になった。さらに驚くべきことに、会見当日の午後に、シェフィールドがジム・ニーダー代理人を伴い遠征地のセントルイスからドジャースタジアムに姿を現し、諸条件を並べて成立か破談かを迫る状態だったという。最終的に話がまとまったのは会見の数時間前だった。
当時の広報担当で今はエンゼルス球団広報のグレース・マクナミー(旧姓森野)さんは、その時の現場を目の当たりにしている。生々しいシーンの再現に、トレードの実相が浮かび上がってくる。
誇りだったドジャースとして職務…今も忘れない妻とのドライブ
「あの日は、クレアGMの秘書の方が休暇中で、私がその代わりを頼まれていたんです。秘書席はGM室の前にあるのですが、駐車場に向かうピアザとGM室に入ってくるシェフィールドの両方を見ました。ショックでしたよ、さすがに。でも、トレードにはクレアGMがかかわっていないのを私は知っていました。なので、すぐに落ち着きましたけど」
エクスポズ(現ナショナルズ)とのナイター終了後に、球場内の「スタジアム・クラブ」で行われた会見の冒頭で、クレアGMが毅然としてマイクを握った姿を私は忘れていない。
「このトレードを私がどのように知ったのかをここではっきり申し上げたいと思います。前日に、出張先のドミニカから電話をしてきたグラジアーノ社長から聞かされました」
頂点を目指して心血を注いできたチームが混乱しているさなかに、背を向けて去るわけにはいかなかった。いかなる状況でも安定した気持ちで選手が戦えるよう尽くすのが、GMの最大の職務と心得るクレア氏は、ドジャースに脈々と流れる「忠誠心」に立ち返り、会見前に頭に浮かんでいた「辞任」を思い留まった。しかし、それが仇となる――。
6月21日、父の日だった。娘からお祝いのメッセージをもらったコロラドでロッキーズ戦の視察を終えたクレア氏はロスに戻った。通常は、空港から自宅に向かうが、その日は、ドジャースタジアムに直行した。球団の運営から退いているオマリー氏の部屋に行くと、前日に話し合いを求めたグラジアーノ社長からその場で「解雇」を告げられた。いろいろな感情が交錯する中で、怒気が突き上げた。「オマリー氏を巻き込む必要がどこにあるのか」。誰よりもドジャースを愛した男は、言うに尽くせぬ思いで部屋を後にした。
時は経った。あの時をふり返ってもらった。
「ドジャース一筋30年間、チームのために精一杯働きました。本拠地開催試合になれば1日15時間は当たり前。私だけでなく、職員みんながドジャースで働くことに誇りを持っていました。あの夜、迎えに来てくれた妻のシェリルの横に座って、家に着くまでずっと前を見続けました。人生で一番の暖かさを感じたドライブでしたよ。家庭を守り支えてくれた妻が横にいてくれたんです。ずっと彼女は元気にしてます」
ドジャースGM後の“第2の人生”…クレア氏ががん闘病で学んだこと
ドジャースを去ったあと、クレア氏は南カリフォルニア大(USC)の他、幾つかの大学でスポーツ関連の講座立ち上げにかかわってきた。“カルテック”の略称で親しまれる名門カリフォルニア工科大では、近年盛んなスポーツデータを扱うアナリティクスのプログラムにもかかわっている。
「ここの教え子の何人かが今ドジャースで働いています」。若者たちが目標に向かって進んで行く一助になることが、あれからの人生をより豊かにしてきた。
10年前に患った皮膚がんを克服したクレア氏は、闘病を支えたロス郊外の最先端医療センター「City of Hope」の支援活動に取り組んでいる。「1988年のドジャース優勝よりもここで学んだことの方が、今は、人生の核になっていると思っています」と言うクレア氏の結びの言葉は、胸奥に響く。
「人の人生の価値というのは、他の人に与える影響の大きさで決まると思います」
人生における楽しい側面も、あるいは振り返りたくないような苦い側面も経験した思いがにじみ出ている言葉は、かのアインシュタインの格言「人の価値は得たものではなく、その人が与えたもので測られる」と重なり、知将・野村克也の「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上」と底で通じている。
いっときがんは顎に転移し、下顎骨の一部を切除し脚の骨を使って再建する大手術を受けた。話の途中で間を置きながらも、記憶を掘り起こして貴重な話をして下さったフレッド・クレア氏の優しい声は一生忘れない――。
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【マイ・メジャー・ノート】
1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)