元中日左腕を襲った”理不尽”な試練 野球継続に…兄が突きつけた条件「敬語を使え」

中日で活躍した米村明氏【写真:山口真司】
中日で活躍した米村明氏【写真:山口真司】

1988年の中日優勝に貢献…スカウトとしても活躍した米村明氏

 1988年の星野中日セ・リーグ制覇に貢献した左腕で、引退後は敏腕スカウトとしても知られたのが米村明氏だ。PL学園、中央大を経て、社会人野球・河合楽器時代には1984年ロサンゼルス五輪日本代表に選出され、金メダルも獲得した。しかしながら、その野球人生は波瀾万丈で、何度も何度も“障害”が発生し、その都度ギリギリのところで踏みとどまりながら歩んできたものでもある。中学軟式野球部入りの際は2歳年上の兄から、ある“条件”を出されたという。

 熊本県八代市出身の米村氏は1959年8月6日生まれ。「小学校の低学年の頃は遊んで、遊んで、晩飯にも帰らないくらい遊んでいたので、親父にブン殴られていました」。野球をやり始めたのは八代市立松高小4年の時という。「その時に小学校が(軟式)野球部を作ったんです。2つ上の兄が6年生で入って、すぐキャプテンになった。まぁまぁ兄は上手だったんです。それで僕も連れられて行ったのがきっかけ。兄貴つながりです」。

 ポジションは投手。「自分からやりたいとは言っていないです。僕がたまたま左投げだったからピッチャーに振り分けられたというのが正しいかな。『左利きは手を挙げろと言われて、じゃあお前はピッチャー』って感じでね。本当の話、ピッチャーはやりたくなかった。野手の方がよかったんです」と苦笑するが、潜在能力は高かった。「1学年上にもうひとりピッチャーがいたんですけど、その人はすぐに追い越した。4年生で、すぐに6年生のチームに入りました」。

 練習はきつかったそうだ。「プロのテストを受けたこともある方が小学校の先生。僕はその人に見初められて、学校が終わると、雨の日も、風の日も毎日、100球投げさせられました。小4の時ですよ。痛い、かゆいも関係なしです。ただ、それで急激に成長したっていうのはありました。俺って結構、球が速いんじゃないか、人より遠くへ投げられるんじゃないかってね。ソフトボール投げで八代市の(小学生の)記録も作った。2つ下のヤツにすぐ追い抜かれましたけどね」。

中学野球部入部へ…2つ上の兄との約束「家でも学校でも敬語、ため口は許さん」

 松高小軟式野球部時代の成績については「守れない、打てないで、チームは弱かったし、あまり記憶がない」と話すが、この時期に野球選手としての最初の土台が築かれたのも事実。「今考えると、小学校の時、指導者に恵まれました。のちの自分があるのも、あの先生のおかげだなとは思います」と米村氏は感謝している。もっとも、そのまま中学でもスムーズに事が運んだわけではない。1972年に八代市立第一中学に進学すると、最初は軟式野球部に入らなかったという。

「(中学)3年生で野球部の兄貴が、僕の入部を嫌がったんです。“弟を変にかわいがるのは嫌だし、そう言われるのも嫌。だからお前は入ってくるな”ってね。だから、僕も兄に言われた通り、入らずにいたんです」。とはいえ、小学校時代の野球部仲間はほとんどが中学野球部に入っている。「同級生から『何でお前は入らないんだ』って聞かれて『兄貴が駄目だと言うから』と答えていたんですけどね」。そこで意を決して兄に頼んだそうだ。

「『みんな“入れ、入れ”って言うし、野球部に入らさせてもらえないかな』と兄貴に言いました。そしたら『じゃあ、ちょっと条件がある。今から家でも学校でも俺には敬語を使え! 兄弟だからってため口は絶対許さん』って。兄は完璧主義者みたいな性格をしているんで『その条件を守るんだったら、入ってもいい』と。『はい、わかりました』。それで僕は5月頃から野球部に入らせてもらったんです」。

 そんなこともあって、ようやくスタートした中学軟式野球部時代だが「あの頃は上級生からの“説教”もあったし、厳しかった。3年生が8月に引退するまで、ずっと球拾いでした。昔の運動場なので、サッカーやら陸上とかと一緒にやるんで、当たらないように球拾い。『試合に出ることはならん』って」と、何のために入ったのかと思うほどつらい日々だったとか。理不尽な上下関係も含めて、これが米村氏の野球人生の最初の試練。ちなみに兄との“敬語関係”は、兄が中学野球部を引退した後も継続。「まぁ封建的な時代でしたね」と何とも言えない表情で振り返った。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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