元中日左腕、2万円が招いた地獄「悲惨でした」 監督に退学宣言も…断てなかった“関係”

元中日・米村明氏【写真:山口真司】
元中日・米村明氏【写真:山口真司】

周囲の説得も「やめます」の一点バリ…同級生に懇願「2万円、貸してくれ」

 元中日左腕で敏腕スカウトとしても名を馳せた米村明氏はPL学園OBだ。1975年に熊本・八代市立第一中を卒業後に入学し、早々に野手として結果を残して、1年生でメンバー入りを果たしたが、その一方で厳しすぎる上下関係、特に1年上の世代との関係などに苦しんだ。その年の夏の大会前にはとうとう「野球部も、学校も辞める」とまで口にしたという。結果的には踏みとどまった形で大会にも出場したが、実際は紙一重。「もしも、あの時……」と当時の状況を明かした。

 1年生でいきなり野手として頭角を現した米村氏は、1年上の先輩から今ではあり得ない厳しい“説教”を受けていた。1975年夏の大阪大会前に、1年生でひとりだけメンバー入りしたが、もはや我慢は限界を超えていた。監督室に行き「ユニホームはいりませんので、メンバーから外して下さい」と申し入れたという。鶴岡泰監督に理由を問われても「言えません」。本当のことを言えば、また地獄が待ち受けると考えていたからだ。

 米村氏は「3日間、黙秘権を使いました」という。そして3日経った時に「よし、辞める、野球部も辞める、学校も辞める」と決意した。学校サイドのいろんな関係者から説得されても「やめます」と言い続けた。ついには鶴岡監督に「『僕は熊本の田舎から高度な野球を教えてもらい、技術を勉強して将来の役に立てたいと思って、この学校に来ました。それは今も変わっていません。決してここに殴られるために入学してきたわけではありません。だから辞めます』と言いました」。まさに腹を括っての発言だった。

「そう言って、監督の返事を聞くこともなく、僕は監督室を飛び出していったんです」。この時点はもう辞めることしか考えていなかった。だからこそのアクションだった。だが、ここで問題が起きた。熊本に帰るためのお金を持っていなかったことだ。

「大阪出身の同級生が、ちょくちょく見に来る親に小遣いをもらっているのを知っていたので『2万円、貸してくれ。(熊本に)帰ったら必ず返すから』と頼んだんですけど『いや、今、お金がないねん』って貸してくれなかった。『親に電話して持ってきてもらえないか』とも言ったんですけどね……」

 そんな話をしている時だったという。「ガラガラって扉があいて、3年生のキャプテンが『何やっているんだ! 早く練習に出ろ!』って。そんな時でも僕は『はい』って言うしかなかった。先輩に対して『いいえ』はないですから」。監督に辞めると言い切ったのに、結局、そのまま練習に参加することになった。お金がないから出て行けなかった。「そこから(大会までの)1週間ほどはやっぱり地獄でした。(1年上の)先輩からは『お前、チクったな』とか言われて……」。

1年夏は12打数2安打…初芝の立石を打てず敗戦「速かったですよ」

 もはや辞められなくなり、とにかく耐えた。鶴岡監督からは、その後、何も言われなかったそうだ。「僕が練習に出ているから、監督も何事もなくなったって思ったんでしょうね。でも、僕は悲惨でしたよ。だって顔が……。それは監督も知っていたと思います。見れば、わかりますから。見て見ぬふりだったんじゃないですか」。その夏のPL学園は大阪大会に2回戦から出場。3年生エース・尾花高夫投手(元ヤクルト)を擁して2勝したが、4回戦で初芝に2-6で敗れた。

 米村氏は全試合にスタメン出場して12打数2安打だった。「確か背番号は18だったと思いますけどね。(4回戦で負けた)初芝は立石(充男)さん(元南海内野手)がピッチャー。速かったですよ、球が。打てなかったです」と振り返ったが、それは厳しい環境の中、精一杯プレーした結果でもあった。

 当時を思い出しながら、米村氏はこう話す。「あの時、もしも同級生にお金を借りることができていたら、僕は辞めていました。100%、熊本に帰っていました。まぁ、でも今考えるとですよ、そういうキーポイントがいくつもあって、僕は生かされているんだなって思いますけどね」。あそこでPL学園を辞めていたら、その後の野球人生にも影響はあったことだろう。とはいえ、PLでの激しい生活が1年夏の大会終了とともに改善されたわけでなかった。1年上の世代との“際どい関係”は新チームになっても続いていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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