3年生の直訴に「明日負けるぞ」 最後の夏で監督が“予言”…初の甲子園でもなかった感動

大阪大会優勝後…鶴岡監督が宣言「今度は甲子園の決勝で先発させる」
1976年夏の第58回全国高等学校野球選手権大会で、PL学園(大阪)は決勝に進出した。桜美林(西東京)に延長11回3-4のサヨナラ負けを喫して涙をのんだものの、準優勝の結果を残した。元中日左腕の米村明氏は、当時PL2年で2番手投手兼外野手で、甲子園での投手としての出番は準決勝の海星(西九州)戦のみに終わった。決勝で先発予定だったが、先輩たちがPL学園・鶴岡泰監督に3年生エースの先発を直訴して変更になったという。
米村氏は1年冬の1976年1月に、鶴岡監督から「7月の大阪大会決勝に先発させるから準備しとけ」と通達された。ライバル校に情報を与えないように、毎日、夜だけの投手練習を命じられて、秘密兵器の役割も担った。PLのエースは1学年上の右腕・中村誠治投手で「PLには右ピッチャーしかいないというイメージを植え付けさせる」との狙いがあったという。大阪大会は、その作戦通りに進行し、PLは勝ち上がっていった。
準決勝まで米村氏はショートリリーフに徹した。「(大阪大会中に)8回か9回かの2アウト満塁の場面で『ちょっと度胸試しで行ってこい』と言われて三振をとったのは覚えています。で、(大鉄との)決勝は(予定通り)先発でした」。6回3失点投球で中村投手につなぎ、PLが6-4で優勝した。「それでまた、僕は監督に呼ばれたんです。『お前、今度は甲子園の決勝で先発させるから、覚悟しとけよ』ってね」。
1月の大阪大会決勝先発予告に続く、大阪大会優勝段階での甲子園大会決勝先発予告だった。「『わかりました』と監督に言いました。もうその頃は度胸もついていましたしね。で、甲子園も(PLは)勝っていったんです」。2回戦・松商学園(長野)戦、3回戦・柳川商(福岡)とエース・中村が2試合連続完封。準々決勝・中京(愛知)戦は9-3で中村が完投した。その間、米村氏は中京戦で代打から右翼守備について2打数無安打だった。
米村氏に投手として出番があったのは準決勝・海星戦。5回途中から中村をリリーフし、1回1/3を投げた後、再び中村と交代。そのまま右翼に入り、2-2の延長11回には勝ち越しの左犠飛で決勝進出に貢献した。そして、いよいよ次は監督が予告していた決勝先発、となるはずだった。だが、先発マウンドには中村が上がり、桜美林に延長11回にサヨナラ負けするまで、一人で投げ抜いた。鶴岡監督構想とは違う展開になったのは、3年生の直訴によるものだったという。
甲子園準優勝のご褒美は「寮」
「ミーティングで監督は『明日(先発)は米村やからな』と言っていたんですが、その後にキャプテンら3人くらいが監督室に行って『ここまで来れたのは中村のおかげだから、中村に行かせてくれませんか』と頼んだそうです。聞いた話では、その時監督は『そんな情で流されるんやったら、明日負けるぞ、ええんやな、それで』と言ったそうです」。米村氏の甲子園決勝先発はそれで消滅したわけだ。
「でも中村さんも肩痛でヨレヨレだったのに最後まで投げて、本当に頑張られたと思います」と米村氏は話す。初甲子園についても感激などは特になかったそうだ。「決勝前、キャプテンに『芝生に寝ろ! この経験を楽しめ!』って言われましたけどね。まぁ、僕らはただ目の前の敵と戦うだけ。試合でミスをしたくない、監督に怒られたくない、その一心ですから。場所がどこでも試合になれば一緒でしたね」と淡々と振り返った。
さらには「決勝で負けて、教祖様にご挨拶しに行った。普通だったら何で負けたんだって怒られそうなものですけど、あの時は、キリスト教には勝てませんって言われて、僕らはホッとしましたよ。桜美林はキリスト教でしょ。で、『ご褒美は何が欲しいか』と聞かれて『寮を作ってください』と。すぐに作ってくれました」と付け加えた。これで米村氏の2年夏が終わった。次は最上級生になる年。今度はPLエースとしての“闘い”が幕を開けた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)