PL学園監督から鉄拳制裁「前に出て来い」 “ブチギレ”たエース「ピッチャーやめます」

米村明氏はPL学園で2年秋からエース…秋季大会は大阪大会4強止まり
高校ラストイヤーは、まさかの……。元中日左腕の米村明氏は1977年、PL学園3年時に甲子園へ行けなかった。1976年の2年秋は大阪大会準決勝で大鉄(現・阪南大高)に負けて選抜の道を絶たれ、翌3年夏も大阪大会準決勝で北陽(現・関大北陽)に敗れた。エースとして臨みながらの敗戦だったが、この年もいろんな事が起きていた。3年春には鶴岡泰監督の厳しすぎる“指導”についていけず、「ピッチャーをやめます」と訴えたことがあったという。
PL学園は1976年夏の甲子園で準優勝、10月の佐賀国体では優勝を成し遂げた。国体では初戦で星稜に延長13回2-1でサヨナラ勝ちして勢いに乗ったが、米村氏は、のちに中日で同僚となる同学年の星稜・小松辰雄投手に衝撃を受けたという。「何やこの球はって思いました。こんな速い球を投げるヤツがいるんだなってね。(7番・投手で出た)僕は詰まらされてピッチャーゴロ。小松は笑いながら捕って(一塁に)投げていましたけどね」。
2年時に全国の舞台を経験した米村氏だが、最上級生となった2年秋は大阪大会準決勝で大鉄に1-3で敗れた。選抜出場の道が消え、何とも悔しい結果になったが、まだ最後の夏が残っている。1学年下には打撃力も兼ね備えた大器・西田真二投手(元広島)らもいたし、前年夏を上回る甲子園制覇の大目標を掲げてPL学園ナインは練習に励み、一冬を越した。ちなみに米村氏は下級生に対する理不尽な“指導”は基本的にしなかったという。自分が散々やられて嫌な思いをしてきたからだ。
「僕らの代の時は大きい集合を1回しかしていないと思う。みんなは“やれやれ”って言うんですけど、『拳が飛んでくるのを見たら恐怖しかない。そこで反省してやるとかはないからやめとけ』って僕は率先して言いましたよ。ただ、1年下のヤツが僕らの同級生の大人しいヤツの文句を言っていたのを聞いた時は怒りましたけどね」。一方で米村氏は、1977年の3年春に「ピッチャーをやめます」と鶴岡監督に訴えたという。
後に亜脱臼と判明…「ジンジンとしていた肩」で投げた練習試合
これには理不尽な“引き金”があった。「春に天理と練習試合をやって僕が投げて、確か同点の9回に2点を勝ち越されて4-6で負けたんです。肩が何かジンジンとしていてね。実は亜脱臼していたと後でわかるんですが、その前に(グラウンドで)あった試合後ミーティングでのことです。監督に『米村、前に出て来い!』と言われ『ウチは何を目指しているんだ』と聞かれたので『はい! 甲子園、全国制覇です!』と答えました」。そこから“地獄の展開”になったという。
「『お前、今日の結果がわかっているのか!』に『わかっています!』と言うと、『じゃあ負けたっていうのはどういうことだ!』と……。『これが甲子園の決勝だったら準優勝です!』と言うと、『本当にわかっているのか!』って。僕は『はい! わかっています!』と言いましたよ。すると『いや、わかっていないから負けるんだよ!』と返されてバーンと……」。思わず後ずさりし、そんな厳しい“指導”がホームベースのところからライトフェンスのところまで続いたそうだ。
「それが終わると『ここからセンターまで走っとけ』って言われて一人だけ60本くらい走りました。『お前、なんで肩を動かしていないんだ! 手をしっかり振って走れ!』と言われましたけどね。自分では動かしているつもりだったんですが、亜脱臼していて感覚がなかったんでしょう。寮に帰って風呂に入ろうとしたら腕が上がらなかった。で、診てもらったら亜脱臼だったんです」。あまりの仕打ちに気持ちが切れたという。そして「ピッチャーをやめる」と口にしたわけだ。
「エースは抑えて当たり前で、打たれたらボロクソ言われる。こんなアホらしいことはないと思いました。まぁ、同級生にもピッチャーはいたし、1年下に西田もいたので、僕が投げなくても勝てる、そうなれば僕はバッターに専念できるとも考えて、監督に言いに行ったんです。『それはアカン』って言われましたけどね」。この一件で、米村氏は鶴岡監督への反発心を強め、その影響は3年夏の大会にも……。高校生活、集大成の夏はとんでもない結末を迎えることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)