勝手に“借金肩代わり”…決まっていた社会人行き「バカ野郎!」 捨てた1800万円「もういいです」

中大の高木キャプテンに直談判「ピッチャーを辞めさせてください」
進路に“米代”が影響した……。元中日左腕の米村明氏はPL学園から中央大に進み、1982年からは社会人野球・河合楽器の一員となった。大学時代は2年(1979年)春の東都リーグ優勝に貢献するなど実績も残した。プロもヤクルトからドラフト外での誘いを受けたという。だが、それも断って社会人入りの道を選択。その裏には、中大野球部に関わる思わぬ出来事と中大・宮井勝成監督との“約束”があった。
米村氏は中大で1年春から投手として結果を残した。2年春にはリーグ優勝の原動力になり、その後、急性肝炎のため離脱したものの、春から一転して最下位に沈んだ同年秋は日大との入れ替え戦で1部残留に導く好投も見せた。だが、もともとは野手志望で、投手を積極的にやりたいと思ったことは一度もなかったそうで、1980年の3年時には「当時キャプテンの高木豊さん(元横浜、日本ハム)に『ピッチャーを辞めさせてください』と言いに行きました」という。
「2年の時に体も壊しましたし、同級生のピッチャーも成長していたし、別に僕がピッチャーをやらなくてもいいんじゃないかと思ったんです。だからお願いしたんですけど、高木さんは『いや、ピッチャーはいないよ、ヨネ』って。『とりあえず、ピッチャーをやっとけよ』と言われて……。で、ずっとピッチャーです。それがあって続いたんです」。もしもその時、野手に転向していたら……。高木先輩からの“説得”は米村氏の野球人生において大きなポイントにもなったわけだ。
中大では3年時も、4年でも優勝できなかったが、米村氏は大学4年間で60試合に登板し、17勝21敗、防御率2.86の成績を残した。「(左腕では)1学年下に立教大の野口(裕美投手、元西武)がいて。僕は彼に勝てなくて、全日本に選ばれなかった。野口を見て、(大学卒業時の)プロ入りは無理だなって思いました」と進路は河合楽器入りの方向で考えていたそうだ。ただし、自分自身が完全に決め切る前に、それが“内定”していたという。
河合楽器が米代100万円を“肩代わり”…米村氏も道具提供を受ける
「(中大の)マネジャーから、いきなり『米村さん、ありがとうございます!』って言われたんです。『何や、わけのわからないことを言うなよ』と言ったら『河合楽器さんが“米代”を払ってくれました。ありがとうございます。(中大監督の)宮井の親父も喜んでいました』と……。あの頃、寮は貧乏でね、米代を100万くらい借金していたそうで、それを河合楽器が、僕が入るってことで払ってくれたっていう話だったんです」。全く知らなかったため、少々、戸惑ったそうだ。
その数日後、宮井監督に呼ばれたという。「『おい、お前、河合楽器に行くんか?』と聞かれたので『えっ、何でですか』と言ったら『実はヤクルトから、1800万くらいで、ドラフト外で契約してくれるという話が来ているけどどうする』って。僕はその頃は監督に結構、話ができたんで『河合楽器に100万、もらったんでしょ。マネジャーが“助かった”って言っていましたよ』と言いました。監督には『バカ野郎! それは球団からもらう金で返せば済む話なんだ』って言われましたけどね」。
その場で米村氏は「いや、もういいです。僕は河合楽器に行きます。その代わり、2年後、必ずプロに行かせてください」と宮井監督に話したという。「監督も『わかった。それは約束する』と言ってくれました。まぁ、その時点で僕も河合楽器からグラブとか野球道具を頂いていたし、それを裏切るわけにはいかなかったんですけどね」。“2年後にプロ”という明確な目標を持って米村氏は静岡・浜松市の河合楽器入りすることになった。
「(大学から)プロに行っても一線級で活躍できるわけがないし、プロにはあと2年間、社会人で揉まれてから、入ってもいいんじゃないかっていう考えもありました」。だが、結果的に米村氏は社会人野球を2年で“卒業”することはできず、3年後に中日入りとなる。PL学園、中大と、その野球人生はとにかく波瀾万丈。新天地・河合楽器でも、ひと騒動が起きる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)