与四球30で「もうボロボロ」 最多勝右腕が味わった“地獄”「野球やる気なくなりました」

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

山沖之彦氏はバスケ部を経て中2で野球部へ…苦しんだ制球難

 阪急・オリックスで通算112勝を挙げ、最多勝に輝くなど活躍した191センチの長身右腕・山沖之彦氏は1973年、高知・黒潮町立大方中学2年になって軟式野球部に入った。中3時にはエースとし高知県大会出場を果たすなど結果も残したが、制球力がどうしようもなく高校では野球を続けるつもりはなかったという。「ストライクさえ入れば勝てるんですが、フォアボールが多くて……。練習試合で30くらい(四球を)出して、もうやりたくないと思ったんです」と明かした。

 大方中入学時には身長が「180センチ近くあった」という山沖氏は、まずバスケットボール部に入部した。だが「背が高いだけで、1年ではひとりだけ、3年生と一緒の練習に入らされて、きつかったし、嫌になった」と中1の1学期までで退部。「練習が楽しそうに見えた」と中2から野球部に入り直した。「全部で15~16人かな。野球部は人数が少ないので、いろいろなところをやらなきゃいけないんですけど、背が高いからって、ピッチャーの練習もやらされました」。

 バスケ部の時は毎日午後9時頃まで練習し、帰りが遅くなったのも退部要因だったが、「野球部はそんなに練習した覚えがない。夕方頃には帰れたと思う。それに田舎の先輩が2人いましたしね」と山沖氏にとっては、伸び伸びとクラブ活動をやれる環境だったのもよかったそうだ。「僕が入ってから監督が毎日、来るようになったのは計算違いでしたけどね。それまでは監督も練習に来ていなかったので」と話したが、それも取るに足らないことだったという。

 そんな軟式野球部で山沖氏は3年時にエースとなった。「中学の時は(高知県)幡多郡の大会に勝って、県大会に2回出ました。ベスト8か、ベスト4くらいまで行ったと思います」。だが、制球難だったという。「県大会は2回とも僕の暴投で負けたんですよ。球はある程度、速かったと思います。だからストライクさえ入れば勝てる。けど、フォアボールも出すという……。そんな感じやったんです」と振り返った。

高知県立中村高校に進学も「野球はやりません」

「自分ではいつも同じように投げているつもりだったけど、フォームも日によって違っていたんでしょうね。あの頃は投げ方を教えてくれる人もいないし、よくわからないけど、フォームはバラバラだったと思う」。練習試合(7回制)では“四球地獄”にはまったこともあった。「3年の県大会の前だったか、後だったか、時期は忘れたけど、練習試合でフォアボールを30くらい出したんです。もうボロボロでした」。

 それほどの状況でも人数が少ないため、投手交代とはならなかった。「僕がベンチを見ると、(監督は)よそ見するんですよ。そっぽ向いて……。“もう!”って思いながら投げましたよ。試合は11-15で負けたんかなぁ。よう(味方が)打ってくれたし、よう(失点が)15点くらいで収まったなと思いますけどね。ヒットを打たれたとか、そういうのは覚えていないけど、あれでもう野球なんか、やる気がなくなりました」と、この時点では高校で野球をやらないつもりだったそうだ。

 実家は農業を営む。「僕は長男なのであとを継がなきゃいけないな、というのは頭にはあったんですけど、年がら年中、農作業をやるのは“無理”と思った。それで、稲刈りとか忙しい時に有給をとって休んで、手伝えるような環境を作るためにサラリーマンになろうと思いました。そのために高校は普通高校に行って、大学まで行きたいなと考えていました」。進路に高知県立中村高校を選択したのも、それが理由。「田舎にある普通高校が中村高校だったんです」と説明した。

 制球難があっても県大会を勝ち上がった球速などが魅力な長身右腕として山沖氏には複数の高校野球部から誘いがあったが、それにも反応しなかった。「高知市内の高校も途中まで来ていたみたいですけど、そこまでして、っていうのがありましたし、本当に野球はやらないつもりでしたから。中村高校にも『試験は受けますが、野球はやりません』と言っていたんです」。1975年4月、中村高に入学。それこそ、この時は1977年春の選抜で準優勝右腕になるなんて想像もしていなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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