「見に来い」「いや、いいです」…練習見学拒否も 騙された15歳「お前、今日から野球部や」

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

山沖之彦氏は高知・中村高に進学…地理教師の野球部監督から度重なる誘い

 半ば強制的に……。阪急・オリックスで2桁勝利を5度マークするなど通算112勝を挙げた山沖之彦氏は1975年、高知県立中村高校に入学したが、当初は野球部に入るつもりはなかった。入部したのは、他の同級生より1か月遅れの5月頃。野球部監督からの「練習を見に来い」の“勧誘攻め”に屈してのことだった。「甲子園に行きたいとか、そういうのもなかった」と話すが、ハードな練習にも耐えて1年秋から主戦投手に。2年夏の敗戦は忘れられないという。

 山沖氏が中村高に進学したのは「家から通える普通高校だったからです。サラリーマンになろうと思ってね」との理由で、野球は全く関係なかった。高知・黒潮町立大方中時代にはエースとして高知県大会にも出場したが「練習試合で30くらいフォアボールを出した」ほど制球難に苦しんだことで、「野球をやる気がなくなった。高校でやるつもりもなかった」と当初は中村高野球部に入っていなかった。「入学して4月いっぱいくらいまではそうでしたね」と拒否反応を示していた。

 一転して5月頃に野球部に加わることになったが、それも自分からアクションを起こしてのことではない。「高校の地理の先生が野球部の監督をやっていて、毎時間、毎時間、“練習を見に来い、見に来い”って言われたんです。僕は『いや、いいです』と断っていたんだけど、同じクラスの子に『ちょっと1回行こうや』と誘われて……。それも(監督と)つるんでいたのかもしれないけど、行ったら『お前、今日から野球部や』となって“えーっ”て思ったけど、もう否応なしで……」。

 高校サイドからしてみれば、山沖氏の長身から繰り出す速球は、やはり魅力的で、制球難も改善できるとの判断があったのだろう。熱烈かつ強制的なアプローチによって高校でも野球を継続することになったわけだが、そんな背景もあってか「バスの最終が19時だったので、学校が終わって2時間もしないうちに練習を切り上げて帰らなければいけなかったけど、1年夏の大会近くまでは、それも認められた。その後は自転車通学でしたけどね」と配慮も受けたそうだ。

高1夏からベンチ入り…翌年夏に経験した「一番悔しい負け」

「練習はきついですよ。1年の時、同級生は自分を入れて16人入ったんですけど、1年の1学期、2学期で半分の8人はやめました。練習についていけないからです。自分は一番きつい時期にバスの時間の関係で早く帰っていたから、まだよかったんです。(通常時間まで練習していたら)まぁ、いろいろ今、やっちゃ駄目なこともあったんじゃないかと思いますしね」。中学で野球が嫌になりながら、高校でやめなかったのは1年夏までの“バス通学効果”もあったのかもしれない。

 山沖氏は1975年の1年夏からベンチ入り。中村は高知大会を駆け上がり、徳島勢と甲子園出場を争う南四国大会に進出したが、初戦の準決勝で鳴門(徳島)に敗れた。「たぶん僕は投げていなかったと思う。3年生エースで(1975年ドラフト2位で)中日に入った美口(博)さんがおられましたしね」と話したが、高知大会準々決勝で敗退した1年秋からは主戦格で投げるようになった。その頃は自転車通学によって練習もみっちり。課題の制球力も中学時代と比べれば改善されてのことだった。

 1976年の2年夏は高知大会準々決勝で土佐に0-1で敗れたが、山沖氏は「この試合はよく覚えていますわ。僕はこの時のチームの方が強かったと思うんですよ。だから負けた時は“何でや”っていうのがあった。別に甲子園に行きたいって思っていたわけじゃないけど、ここで負けるとは思っていなかったんでね」と唇を噛む。0-0の8回表に1点を失った。「(土佐高の3年生外野手)玉川(寿)さんに、インコースに投げてバットの根元でライト前。あの試合、自分の中でも5回くらいまでは素晴らしかったと思うんですけどね」。

 土佐の玉川は、2年生だった前年(1975年)夏の甲子園大会、桂(京都)との2回戦で大会史上2人目のサイクル安打を達成した選手だ。土佐は1976年春の選抜でベスト8入りした強豪でもあったが、山沖氏は勝てる相手とにらんでおり「今までで一番悔しかった負けだった」とまでいう。そして、その思いもバネにしたのだろう。2年秋は快投の連続で高知大会を制し、四国大会も準優勝で中村を初の甲子園出場に導く。1977年春の選抜では、部員数が12人の“二十四の瞳旋風”を巻き起こして準優勝。山沖氏の名前も全国に轟くことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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