甲子園で感じた“違和感”「うわぁ、これも」 拡大するゾーン…快勝続けた一因

山沖之彦氏は高知県立中村高のエースとして選抜で躍動
元阪急・オリックス、阪神投手の山沖之彦氏は1977年の選抜高等学校野球大会で、部員数12人の“二十四の瞳旋風”を巻き起こした高知県立中村高のエースだった。春夏通じて甲子園初出場のチームは、強豪校を次々と倒して、決勝まで進出した。3月27日の1回戦、開会式直後の第1試合で戸畑(福岡)を3-0で破って、波に乗ったが、この価値ある勝利の裏には自らの発言で作った“発奮材料”と、中村・市川幸輝監督からの“指令”も絡んでいたという。
戸畑戦で、山沖氏は被安打2、奪三振11の完封ショーで甲子園デビューを飾ったが、この試合に関しては「絶対に勝たなきゃいかん」といつも以上に気合が入っていたという。「組み合わせ抽選会の時、キャプテンに『北海道か、九州を引いたら俺が何とかする』って言っていたんです。そしたら、福岡(の戸畑)が初戦の相手に決まった。これは何とかしなきゃいかんわって思ったんです」とその理由を話した。
「北海道に関しては、あの頃、まだ雨天練習場とかがなかったんですかねぇ。自分らのあとに練習をしていたので、見ていたんですけどポロポロしていたんで、勝てるんじゃないかと。九州の学校では、当時、強かった佐伯鶴城(大分=同年選抜は不出場)と練習試合を年に1回か2回させてもらったんだけど、そこそこ、いい試合ができていたので、九州勢が相手ならって思ったんです」。最低でも1勝はしたいとの思い。自らの希望通りの対戦相手に奮い立ったのだ。
市川監督からは“初球暴投指令”を出されていたという。「開会式直後の試合でしょ。緊張しているか、試すために『暴投してみい』ってね。ところが試合前になったら監督が『(暴投は)投球練習でやってくれ。1球、もったいないから』に変わったんですけどね(笑)。バックネットを狙って投げましたよ。そこまで届かなくて“あー無理かぁ”ってなりましたけど、それでちょっと力も抜けたかもしれません」。そんなことを経て山沖氏の甲子園での快投は始まった。

阪神の平田2軍監督がいた海星も撃破
4月2日の2回戦の相手は海星(長崎)でこれまた九州勢。“サッシー”こと酒井圭一投手(元ヤクルト)を擁した前年(1976年)夏の甲子園でベスト4入りした学校で、酒井は卒業したが、4強メンバーでもある平田勝男内野手(現阪神2軍監督)が主将になって夏春連続出場を果たしていた。そんな相手にも山沖氏は臆することはなかった。初回に5点を先制する打線の援護も受けて6-2。被安打4、奪三振11の2失点完投で甲子園2勝目をマークした。
「(のちに)平田からは『俺は三振をとられていないけど、ぶつけられたぞ』と言われたんじゃなかったかな。僕はあまり覚えていないんですけどね」。勢いづいた中村は“二十四の瞳旋風”を巻き起こした。選抜大会通算1000試合目となった4月5日の準々決勝・天理(奈良)戦にも4-1で勝った。山沖氏は被安打4、奪三振13の1失点投球で、またもや、その実力を見せつけた。
「あの時は前日夜のミーティングで監督が『記念になる試合だから、無様な試合だけはやめよう』と言ってお開きになったんだけど、その後に僕ひとりだけ監督室に呼ばれて『お前、わかっているな! 向こう(天理)の4番(鈴木康友内野手、元巨人、西武、中日)を打たせるな、そしたら勝てる』とミーティングとは全く違うことを言われたので、頼りにしてくれたんだなと思って、さらにやらんといかんな、という気持ちになったのを覚えています」
甲子園で山沖氏は成長した。「今はだいぶ変わってきていると思うんですが、当時は県大会より、甲子園(大会)の方が、ストライクゾーンが広かった。そこそこのところにいったらストライクと言ってくれたんです。うわぁ、これもストライクかぁ、というのもたくさんありましたよ」と笑みを浮かべながら話したが、中村の剛腕エースとして、その名もどんどん轟いていった。
4月6日の準決勝は岡山南(岡山)に4-1。奪三振は6に留まったが、連投もなんのその、山沖氏は被安打5の1失点完投だった。準々決勝で岡山南は、中村が前年秋の四国大会で敗れた丸亀商(香川)を撃破。「丸亀(商)が勝って来たら『2回続けて負けるわけにはいかんぞ』って監督に言われていたし、岡山南になって何かホッとしたのもあったんじゃないかと思う。あの試合は打たせてとる感じだった」。4月7日の決勝では惜しくも箕島(和歌山)に0-3で敗れたものの、部員12人の中村をたたえる声は多かったし、その試合でも……。まさに思い出の春になった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)