甲子園決勝の直前…相手監督が問題発言「後から聞いたんですけど」 決まっていた結末

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

山沖之彦氏は高知県立中村高を選抜準Vへ導いた

 1977年の「第49回選抜高等学校野球大会」で山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神)は甲子園準V右腕になった。部員数12人で“二十四の瞳”と称された初出場の高知県立中村高のエースとして1回戦から決勝までの5試合をすべて1人で投げ抜いた。箕島(和歌山)との決勝戦は0-3で力尽きたが「スタンドの応援が凄かった。最後のウチの攻撃の時はもう声援が風みたいに感じました」と忘れられないそうだ。

 甲子園で勝ち上がり“二十四の瞳旋風”を巻き起こした中村は1977年4月7日の決勝で箕島と激突した。「選抜は準優勝でも旗があるから、どっちみち旗はもらえるなという話はみんなでしていましたけど、そりゃあ、ここまで来たら勝ちたいというのもありました」。ここまで山沖氏はオール完投で、準々決勝からは3連投目だった。「まぁ、疲れていたとは思います。でも、向こう(箕島)の東(裕司)投手の方が自分よりもコントロールが悪かったんですよ」。

 箕島・東投手は2回戦から4連投目で、さらにハードな日程で決勝のマウンドに上がっていたが、中村打線は3安打7三振に封じられて得点できなかった。「ホント、東投手は(球が)どこに行くかわからないような感じでしたけど、大事なところではストライクが入るんです。で、完封ですもんね」と山沖氏は称えた。自身は箕島打線に11安打を浴びて、奪三振も2。3回に2点を先行され、6回に1点を追加されての敗戦だった。

 とりわけ山沖氏は3回の失点を悔やむ。2死二塁から3番・栗山和行外野手に中前先制適時打を許し、続く4番・西川忠宏内野手にも右中間三塁打を浴びて2点を失った。「あれね、(箕島の)打順を間違えたっていうか……。3番の時に2番と思って投げたんだったかな。3番やったら、もうちょっと力入れたというのがあったんやけどね。打たれた時は、しもうたぁ、と思いましたよ」。相手打者によって投球の力加減を変えていただけに、痛恨の“ミス”だった。

「二十四の瞳」旋風…大声援は「風が吹いたみたい」

 山沖氏は「まぁ、なんせ(箕島の)尾藤(公)監督のコメントでも負けていましたからね」とも口にした。「尾藤さんは“俺は箕島の指揮を執っているけど、ベンチの中で中村高校を応援している”とかなんか、そんな感じのこと言っておられたそうなんですよ。もう、その時点でウチの負けでしょ。言ったら、ウチは相手じゃなかったんです。それくらいだったってこと。後から聞いたんですけどね」。

 上川誠二内野手(元中日、ロッテ)が1番打者、石井雅博内野手(元巨人、阪神)が5番打者だった箕島との“差”を感じたそうだが、その一方で甲子園のスタンドからの中村への大声援は印象深いという。「やっぱり弱いチームを応援してくれるんですよ(笑)。そうだと思います。9回、最後の攻撃の時、横でキャッチボールをしていたら“ウォー”っていう声援で風が吹いたみたいになって、足を上げたら、よろけたんですよ。凄いな、これって思いましたね」

 それは甲子園での“二十四の瞳旋風”の証しでもあった。「まぁ、そう思いながら、僕は冷めていましたけどね。もう完全に負けやと思っていましたから」と苦笑したが、敗戦の瞬間は「やっぱり悔しかったですね」と言う。「初めて、また甲子園に行きたいと思いました。(選抜で)甲子園に行かなかったら、そんな感覚はなかったと思います。行って初めて、甲子園の良さがわかったというか……」。

 その時に甲子園の土は持ち帰らなかったそうだ。「僕はあまり興味もなかったんですけど(決勝戦後は)取材とかなんかに追われて(土を)集める暇もなかったんです。(中村ナインは)みんなそうだったんじゃないかな」と振り返ったが、その時は夏も必ず、戻ってくると思っていたに違いない。だが、そうはならなかった。中村は選抜後の春の四国大会も優勝するなど、強さを見せつけていたが、夏は高知大会1回戦負け。まさかの結果が待ち受けていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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