練習で自ら骨折「やってられん」 先輩の「誰や」に自暴自棄…それでも殴られた2年生エース

山沖之彦氏は専大2年春に最下位…東都リーグ2部に降格
あまりの出来事に……。高知県立中村高から専修大に進学した山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神投手)は1979年の大学2年春の東都大学リーグで2部転落の屈辱を味わった。専大は前年(1978年)の春優勝、秋2位から一転して最下位に沈み、2部優勝の青山学院大との入れ替え戦にも敗れた。「あの時の僕は、ちょっといろいろあってね。へそ曲がりやから……」。先輩の“理不尽発言”に大憤慨。その上で、やってはいけないことをしてしまったという。
専大で山沖氏は1978年の1年春から活躍し、リーグ優勝に貢献した。その年の6月24日から7月4日まで日本で開催された日米大学野球選手権大会には打撃投手などの“手伝い要員”で参加。「自分は(球が)荒れるからあまり投げなくてもよかったんですけどね(笑)。でも、一緒に(手伝いで)行った(専大同期の)見形(仁一投手)はコントロールがいいから、ようけ投げさせられていましたよ。ホント、いいボールを投げていましたからね」。
見形投手は栃木・宇都宮学園(現・文星芸大付)出身で、1977年夏の甲子園大会では1回戦で強豪の神奈川・東海大相模を完封するなど、注目を集めた本格派右腕だ。専大でも1年春から活躍していたが、山沖氏は「見形は日米の時(打撃投手として)投げすぎて肩をつぶしたんじゃないかな。かわいそうやった。日米が終わって、夏に集合して練習していたら肩が痛いって言い出して……」と表情を曇らせながら話した。そして、この同期の怪我はチームにとっても痛手だった。
1978年秋の専大は2位だったが、チームの要・中尾孝義捕手(元中日、巨人、西武)やエース・堀田一彦投手らが卒業後の1979年春は、一気に最下位。さらには右腕・吉田幸夫投手を擁する青山学院大との入れ替え戦にも敗れ、2部に転落した。「あの時(専大投手陣に)見形は(怪我で)いなかった。(先輩左腕の)加藤(正次)さん(元ヤクルト)とかはおられて、自分も投げていたけど、勝てなくて……。それにまぁ、ちょっといろいろあってねぇ、自分、へそ曲がりなんで……」。
「バント練習の時に、わざと突き指」のはずが…まさかの骨折
その春のリーグ戦で山沖氏にとって納得できない出来事があったという。「たまたまね、どことの試合だったかは忘れたけど、ランナー二、三塁で投げて外野フライだったんですよ。そしたら守っていた先輩がポロっと落としたんです。2点入って、それが決勝点になって負けました。で、帰ってからミーティングがあったんですけど、その時に『なんで俺のとこに打たせたんや、誰や』って言われたんですよ」。
山沖氏は「“おいおい、ちょっと待ってくれや”とは言えなかったけど“こんなチームで、もう投げられないわ”と思った。どこに打たせるとか技術を持っていたら、もっとええピッチャーですよ。もうカーッとなって、やってられんって思いましたよ。昔は、そんなのも普通に通っていたからね」とあきれ口調で振り返ったが、そんな気持ちで突発的に“いけない行動”をしてしまったという。「バント練習の時に、わざと突き指したんです」。
それが、ただの突き指で終わらなかった。「まぁ、突き指なら腫れるくらいで、投げられるでしょ。そしたら骨折していた。もう、ええわって思ったけどね」。これで山沖氏も離脱し、チームは最下位に沈んだ。「(青学大の)入れ替え戦も自分は投げなかったと思う。いや、投げたんだったかな。とにかく、ずっとギプスをしていると固まっちゃって、動かさなかったら、本当に就職もできないと思ったから、何とかせんといけんとは思ってはいましたけどね」。
悔しい思いもしたという。「(リーグ戦中に)怪我してベンチに入れないのに(先輩から)呼ばれて『終わったと思うな!』ってボコボコですからね」。2部から出直し。「練習が朝昼晩あった。朝練があって、昼は普通にやって、夜も毎日練習。それまで(1部の時は)朝はやっていなかったし、夜は個人練習だけだったんですけどね。普通、シーズンが終わったら長い休みもあるので車の免許を取ろうと思っていたんだけど、それも取れなかった。休みなしで練習ばかりだったんです」。
1979年の2年秋は2部で2位だったが、1980年の3年春は2部で優勝した。山沖氏は最優秀投手になった。国士舘大との入れ替え戦にも勝って、1部復帰も果たした。「あまり覚えていないけど、その時は全部勝ったんじゃないかな」。3年秋は1部で最下位になったが、国士舘大との入れ替え戦に勝利して1部に残留。1981年の4年時は、春4位ながら秋には優勝を成し遂げた。2年の時にやけになったこともあったが、それも乗り越えて山沖氏は大学でも成長していった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)