ドラフト15日前…人生を狂わせた東京⇔高知「言われるのも嫌」 銀行内定ドタキャン「しゃくにさわった」

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

山沖之彦氏は専大4年秋のリーグ戦でMVP…7勝を挙げて優勝に貢献

 191センチの長身右腕・山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神)は専修大時代、エースとして活躍した。1981年の4年秋は7勝を挙げて、東都リーグ制覇に貢献した。1977年春の選抜準優勝で注目を集めた高知県立中村高時代と同様に、専大でもプロスカウトからドラフト上位候補としてマークされた。だが、当初はプロではなく、社会人野球・四国銀行入り希望。「そこに決まっていたんです」。考えが変わったのはドラフト会議が行われる11月に入ってからだった。

 専大では1978年の大学1年春に東都リーグ優勝を経験した山沖氏だが、その後の道のりは平坦ではなかった。1979年の2年春は最下位に沈み、青山学院大との入れ替え戦にも敗れて2部に転落。1980年の3年春に2部で優勝し、国士舘大との入れ替え戦に勝って1部に復帰したが、その年の秋は最下位。入れ替え戦で国士舘大に勝って何とか残留とギリギリの戦いが続いた。1981年の4年春は4位だった。

 そんな中でも山沖氏の剛腕ぶりは年々、評価を高めていった。1981年6月24日から7月5日まで神宮球場などで開催された日米大学野球選手権大会では日本代表メンバーに選出された。日本が4勝3敗で終わったこの大会では、第3戦(6月27日、横浜)と第6戦(7月2日、日生)にリリーフ登板したが「あまり覚えていないなぁ」と話す。ただ、日本代表の監督を務めた明大・島岡吉郎監督の“神通力”には驚いたという。

 日本代表20人のうち、明大勢は平田勝男内野手(現阪神2軍監督)ら9人。エース格は明大・森岡真一投手で、大会MVPに輝いたのも明大・松井智幸捕手だったが、「ベンチから島岡監督が『何とかせぇ』と言ったら、選手が何とかするんですよ。あれは凄いなぁと思いましたよ。それまでは“何とかしろとか、そんなことを言っても、できるかぁ”って思っていたんだね」と、印象に残っているそうだ。

 そんな経験も経て、大学生活最後の秋を迎え、山沖氏はさらに活躍した。7勝3敗の成績で専大をリーグ優勝に導き、最高殊勲選手、最優秀投手に輝いた。「ようけ投げましたよね。あの頃は1試合目に投げて負けたら、2試合目に行くのは当たり前でしたから。勝たないと1試合あかなかった。3敗しているところは全部連投していると思う」。その時代では普通のことだったのかもしれないが、タフでなければ、とても務まらない役割だった。

四国銀行に就職予定も…明治神宮大会での敗戦で方針変更

「大学のOB会からは『もう投げさせるな』と監督のところに話があったらしいです。で、監督が、僕のところに来て『こう言われているんやけどなぁ、投げるのがおらんのや、行ってくれるか』って。『いいですよ』と言って投げました。そんな感じだったんです」。1981年秋の東都リーグVの立役者となり、プロスカウトは、山沖氏に即戦力右腕として二重丸印をつけた。だが、当の本人は社会人野球入りを既定路線にしていた。

「もともと自分は大学に行ってサラリーマンになるつもりでしたからね」。高知で農業を営む実家を忙しい時には有給をとって手伝うことも想定して、地元の社会人野球・四国銀行入りが「決まっていた」という。秋の東都を制した専大は11月7日開幕の明治神宮大会に出場したが、その近辺で山沖氏は「四国銀行への挨拶のために、練習せずに東京から飛行機で高知に行った。日にちがそこって決まっていたんでね。1泊くらいして帰ってきたのかな」と“就職活動”を優先させたほどだった。

 ところが、その後に気持ちがプロに傾いた。神宮大会で専大は決勝で西田真二外野手(元広島)、木戸克彦捕手(元阪神)、小早川毅彦内野手(元広島、ヤクルト)らが主力の法大に4-8で敗れた。先発の山沖氏は初回にいきなり6失点。その後、立ち直って完投したが、8回にも2点を追加された。直前の高知往復による調整不足もたたった形となり、それが「しゃくにさわった」という。「そのために負けたんかと言われるのも嫌やし、自分の中でそう思うのも嫌やった」。

 そんな気持ちのまま、四国銀行に行っていいのだろうか。山沖氏は自問自答した上で、プロも選択肢に入れることにした。神宮大会決勝が行われたのが11月10日で、ドラフト会議が開催されたのは11月25日だから、まさに土壇場、ギリギリでの方針変更だった。そして、阪急からドラフト1位で指名された。山沖氏のプロ野球への道はこうして開かれた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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