タイトルも優勝も「嬉しくなかった」 酷使&酷使も上がらぬ給料…痛感した“格差”

山沖之彦氏は3年目に先発から救援へ…抱いた“格下げ感”
ハードワークだった。阪急・オリックスの主力投手だった山沖之彦氏はプロ3年目の1984年、抑えとして活躍した。シーズン当初は先発を務めたが、不調でリリーフに配置転換。そこで結果を出したが、“昭和のクローザー”は連日のように複数イニングを投げるのが当たり前で肩、肘への負担も大きかった。おまけに「先発できないからリリーフをやる、みたいな感じで」と格下げ感まであったという。「よかったのは麻雀がOKだったことだけ」と苦笑した。
プロ2年目の1983年に山沖氏は15勝をマークし、大エースの山田久志投手と今井雄太郎投手とともに“先発3本柱”と称された。1984年も3月31日の開幕戦(対ロッテ、西宮)が山田投手、4月1日の2戦目が山沖氏、4月2日の3戦目が今井投手の先発ローテーションでスタート。しかも、いずれも完投勝利を挙げ、阪急は開幕3連勝を飾った。3投手が先発陣の軸なのは不動と思われたが、4月中旬でその体制は早くも崩れた。
山沖氏は中4日で先発した2登板目の4月6日の南海戦(大阪)で、8回0/3を自責点9で降板(9回11-11で引き分け)。さらに中4日で先発した3登板目の近鉄戦(日生)では4回を5失点でシーズン初黒星と、2試合続けて精彩を欠いたため配置転換となった。4試合の救援登板を経て、4月30日の近鉄戦(西宮)で再び先発機会を得たものの、2回途中7失点で敗戦投手。この年の最後の先発となった。
「11-11の引き分けの時、8回まで勝っていたので『(9回も)投げさせてくれ』と言って打たれたし、もう『先発させてくれ』って言えなくなった」。入れ替わりで抑えから先発に回った佐藤義則投手が結果を出したこともあり、リリーフでの役割をこなすしかなかった。しかしながら、その仕事はなかなかの激務だった。
1イニング登板がほとんどの現在のクローザーと異なり、当時は複数イニングを投げることがたびたびあった。山沖氏も5月25日の西武戦(西宮)に2番手で登板し、3回2失点で5セーブ目。翌26日の同カードにも3番手でマウンドに上がり、3回2失点で3勝目を挙げた。連投だろうがお構いなしのシーンが多かったが、普通のことと認識していたという。
「まぁ、それをやらんと先発に回してもらえないというのもあったのかもしれません」と山沖氏は話す。「あの頃は“先発できんから、リリーフやっとるんやろ”ってよく言われていましたからね。だから“先発ピッチャーは完投するもんや”という感じでいた。給料も、リリーフはなかなか上がらなかったしね」。阪急のクローザーとして全力を尽くしたのは、先発に戻りたい一心でもあったわけだ。
救援配転で「よかったのは遊べたことかな」
救援投手が投げるのは試合だけでない。ブルペンでは毎試合準備が必要となる。「(完投がある)山田さん、今井さん、佐藤さんの(先発の)時も7回くらいから作り出すし、他のピッチャーの時は5回に作りはじめて、リードしていたら“6回からいく用意をしとけ”っていう感じだった」。当然、肩や肘に負担はかかるし、肉体的にも精神的にもタフでなければ務まらない。神経もすり減らしながら、試合をクリアしていく日々だったようだ。
そんな中、山沖氏は「よかったのは遊べたことかな。先発ピッチャーは先発前に麻雀禁止なんだけど、リリーフはそういうのが何もなし。(球場に)出発するまで何でもOKだったんでね」と苦笑する。言い換えれば、それくらいしかプラスに考えられなかったということだろう。
「自分は先発の時、最初は(登板前日も)麻雀していたんですよ。勝った時は何も言われなかったけど、負けた瞬間にコーチから『お前、わかっとるのか』って。それで初めて(チームのルールを)知ったんですけどね」
1984年、阪急はパ・リーグ優勝を果たした。山沖氏は11勝8敗15セーブをマークして大貢献。最優秀救援投手のタイトルも獲得したが、「リリーフは嫌」の気持ちがすべてを上回っていたという。「ユニホームを着れば一生懸命やりましたけどね、本能で。でも優勝しても一切、嬉しくなかったです」と振り返った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)