阪神にFA移籍も「ほっといてくれ」 1年契約が招いた“悲劇”…想定外の事態に「無理やった」

山沖之彦氏は1994年オフに阪神移籍…翌年1月に起きた大地震
誤算だらけだった。1994年オフにオリックスから阪神へFA移籍した山沖之彦氏だが、新天地では一度も1軍で登板できなかった。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で野球どころではない状況に陥り、2月の高知・安芸キャンプでは右肩痛に見舞われ、大きく出遅れた。もともと肩のできあがりが遅いタイプだけに、当初は「開幕までには何とかなるだろう」とみていたが、症状は想像以上に重かった。
山沖氏は阪神に1年契約でFA移籍した。「2年契約を提示されたんだけど、いりませんと言いました。1年目をやって、次の年に2年契約した方が、っていうのが自分にはあったんですよ。だって、自分はやれるって思っていましたから」。オリックスでのラストシーズンになった1994年に先発で7勝をマーク。阪神1年目は36歳になる年だったが、出番さえあればさらなる結果を残せる自信もあった。1年目に成績を出した上で、ジャンプアップ契約を狙ったわけだ。
背番号は「43」に決まった。「球団からは(阪急・オリックスでつけた)12番を用意しましょうか、と言われたんだけど、あの時、安達(智次郎投手)がつけていたし、若い子から取るなんてね。『そこまでしてもらわなくてもいいです。(他の選手の)色のついていない番号だったら、何番でもいいですよ』と言って43になったんです」。1995年を迎えて気合も入った。「阪神に行く時は、2、3年頑張ったら、人生変わるなって思っていましたしね」。
だが、そこから思わぬことばかりが起きた。1月17日に阪神・淡路大震災が発生。「1月15日が結婚記念日なんですが、ずっと応援してくれている方が、(所属球団が)阪神に変わるってことで、その日に京都でパーティーをやってくれたんですよ。翌日(16日)はホテルで、子どもたちもみんなで食事して、夜中の12時を回ったくらいに(神戸の)自宅(マンション)に帰ってきて。で、朝ですよ、地震が。最初、ああ揺れたわと思ったらガターって……。家具が倒れてきて、ドアが開かなくなって……」。
周辺各地に甚大な被害を出した直下型地震。「ウチの階も全部ヒビが入っていた。地盤が弱いところだったら、潰れていたかもしれない」。生活していくだけで大変だったという。「ウチの部屋に、多い時は近所の人とか10家族くらいいたんですよ。で、飲み物を何とかしなければいけない。自転車でその辺を回っていたら、潰れた店があって、そこの人が出てきて『阪神によく来てくれた!』って水を持たせてくれてね……。あれはホント助かりましたよ」。
野球どころではなかったが、移籍1年目に向けて練習をしなければ、との思いも当然あった。「知り合いのいる加古川に行って、砂浜でボールを投げたりしました。その後、また神戸に戻って、六甲の上の方にある中学校に行って練習しました」。しかし、それも4日で終わったという。
「(中学校での練習の)4日目は昼から用事があったから、朝早く行って、山を走って、汗だくになって学校に戻ってきたら、みんなバケツを持って給水車を待っていたんですよ。小学生とかもね。それ見てね、ワー、俺、いらんことやっているんだなと思った。そんなに汗かいて、“この汗かいたのをどうするの”って、そんな目で見られているんじゃないかなって思ったら、もう駄目やった、もう練習に行けなくなったんです」
肩痛の影響で1軍登板機会なし「無理やったですね」
キャンプインの2月を迎えた。「阪神からは、もう(高知・安芸)キャンプには来なくてもいい、って言われていたんだけど、ここ(神戸)におっても何もできないじゃないですか。だから、喜んで行かせてもらいました。でもまぁ、緊張していたかもしれんね。安芸に行ったら、有名な人がいっぱいいるから」。低迷していた阪神の救世主と期待されただけに注目度も高かった。マスコミも、山沖氏の一挙手一投足を報じた。
「投げたり、投げんかったりしたけど、こっちはオリックスの時と同じような調整をしていただけなんやけどね。まぁ、しゃあないけど、ほっといてくれとは思ったね」。異なったのは肩にちょっとだけ違和感を抱いたことだった。「最初におや? って思ったのは加古川で投げたりした時だったんですけどね。キャンプに行ったら、一週間に1回くらいズキってなりだして……」。
もともと肩のできあがりが遅いタイプ。「それでも開幕までに何とかすればいいだろうっていう。それはあったんですけどね」。しかし、状態は改善するどころか、「キャンプが終わってからは一日に1回、痛みが出だしてキャッチボールも何もできなくなった」という。「病院に行ったら『(右肩の)腱板が摩耗してありません』とか言われた。去年(1994年)まで投げとったんやけどなぁって思いましたけどね」。
プロ入り後、肩を痛めたのは初めて。投げられない日々が続き、歯がゆかった。「肘を痛めた時は我慢したけども、肩の時は無理やったですね」。FAで加入した選手として期待が大きかった分、周囲の目も厳しかった。「つらかったですよ。自分としては勝負の年でしたから」。その後、リハビリを経て2軍では投げたが、1軍での登板機会はなかった。
「阪神では(周囲から)“今年は肩を治してゆっくりせいよ”ってよく言われました。みんな、自分が2年契約と思っていたみたいでね。俺にはそんな時間ないのに……」。阪神入りの際、2年契約を断って敢えて1年契約にしたことも重くのしかかった。待っていたのは“最悪の結末”だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)