古葉監督も忘れていた挑戦 V旅行のコンペにバットを持参した“両打ちの首位打者”
内田順三氏は正田にスイッチヒッターへの“転向”を勧めた
現役時代にヤクルトや日本ハム、広島で13年プレーし、広島と巨人で指導者を計37年務めて数々の打者を育てた内田順三氏。50年連続でプロのユニホームを着た名伯楽が「私にとっても勉強の日々でした。おかげで37年もコーチをすることができました。原点です」と感謝する好漢がいる。広島の正田耕三は、1987年にプロ野球で初めてスイッチヒッターとして首位打者を獲得した。
正田はアマ時代、エリートだった。新日鉄広畑の内野手として都市対抗で活躍し、日本代表に選出されて1984年ロサンゼルス大会で優勝。その年のドラフト会議で広島から2位指名を受けた。しかし、その肩書もプロでは通用しなかった。入団した1985年、代走や守備要員でスタートを切った。打撃コーチだった内田氏が振り返る。「それまで社会人でずっと主力。ベンチに座って出番を待つなんてことはなく、物足りなかったでしょう」。思い詰めた正田が「どうしたら試合に出れるようになりますか」と相談してきた。
身長170センチと小柄。右打者で、逆方向への打撃など小技は上手だが、パワーはない。特徴は俊足。内田氏の頭に2人の選手が浮かんだ。高橋慶彦と山崎隆造だ。ともにプロ入り後にスイッチヒッターに取り組み、機動力がお家芸のカープの1、2番を形成していた。「お前もやってみるか」と問うと、正田は「何でもします」。内田氏が古葉竹識監督に転向案を打診すると、「ええよ。任せた」とあっさり了承してくれた。
全く未経験の左打席で、1軍レベルのスイングを作り上げるには、何をすべきか。まだコーチ業3年目の若き内田氏にとっても挑戦だった。「打撃コーチはアイデアマンであれ」。現役時代にヤクルトで指導を受けた中西太氏の言葉を胸に秘め、実践した。