恐怖でサイン出せぬ捕手「指が動きません」 打たれたら鉄拳制裁「一番殴られていた」
星野仙一氏と信頼関係を築いた小松辰雄氏…コーチとして仕えたことも
選手と選手、監督と選手、監督とコーチ。野球評論家であり、「焼処 旨い物 海鮮山」(名古屋市中区錦3丁目)のオーナーでもある小松辰雄氏は現役時代、星野仙一氏と3つの関係を経験した。背番号20も継承し、誰よりも信頼されていたし、家族ぐるみの付き合いもあった。星野中日1年目の1987年は17勝6敗の成績で最多勝にも輝いた。
「まず、違ったのは賞金だよね」。小松氏は最初にこう口にした。1987年4月12日の巨人戦(後楽園)、3安打完封で記念すべき星野中日1勝目をマークした時は50万円。4月18日の阪神戦(ナゴヤ球場)で7安打完封勝利の際は30万円。次の登板は勝ち負けなしだったが、4月30日の巨人戦(ナゴヤ球場)で1失点完投勝利を挙げ、20万円。1か月で計100万円だ。
「みんな目の色が変わった」。前年までは巨人戦でもチームで15万円とか言われていた。それこそ1000円、2000円の賞金もあったのが、いきなりジャンプアップしたのだから無理はない。同時に「星野さんが監督になって、それまでぬるま湯的だったのが変わった。鉄拳もあったけどね」。
無茶苦茶なことを言われたこともあった。ある日の先発試合で、7回まで6点リードのまま降板したが、リリーフがひっくり返された。すると「なんで交代が嫌だと言わなかったんだ」と怒られた。当然、監督が交代を決めていたにもかかわらずだ。コーチ時代(1995年から1997年)も宣銅烈の調整について「どうしましょうか」と尋ねた時「好きにやらせー」と言われ、その通りにしてうまくいかなかったら「好きにやらせるからこんなことになるじゃないか」と激怒されたそうだ。
そんなことも含めて小松氏は「面白かったよね」と笑う。「とにかく熱い人だった。ユニホームを戦闘服って言うんだからね。でも、ユニホームを脱いだら本当にいい兄貴って感じだった。ウチの子どももかわいがってもらってね。娘(亜有さん)がプロゴルファーになったのもきっかけは星野さんの一言だからね。『プロゴルファーになったら、俺がスポンサーになってやる』ってね。それから娘はゴルフをやり始めたんだから。スポンサーにはなってくれなかったけどね」。