OP戦開幕投手もKO「死ぬまで走っとけ」 暗闇の“罰走”&闘将からの予期せぬ通告

元中日・山本昌氏【写真:山口真司】
元中日・山本昌氏【写真:山口真司】

プロ4年目は3登板で防御率16.20…肘痛リタイアも後に分かった疲労骨折

 星野仙一氏が中日監督に就任したことが、レジェンド左腕・山本昌氏の野球人生には大きなプラスとなった。だが、最初からうまくいったわけではない。就任1年目の1987年シーズンはわずか3試合の登板で0勝0敗、防御率16.20に終わった。開幕1軍切符をつかみながら、故障離脱でシーズンを棒に振った。結果、さらに崖っ縁に追い込まれた。それこそ、もう後がないくらいの状況だ。そこから始まった。運命の5年目シーズンが……。

 中日が星野体制になったシーズンは山本氏のプロ4年目。キャンプから積極的にブルペンで投げ込むなどの努力が実って、初の開幕1軍切符をつかんだ。だが、3試合目の登板で暗転する。1987年4月14日の広島戦(ナゴヤ球場)。2-6の6回から4番手で登板して2/3イニング、打者5人に投げて、1安打、2四球、3失点で降板となった。「衣笠さんに四球を出したときに肘が痛くなったんです」。

 無念のリタイア。この故障が長引いた。「治療しても全然、投げられなかった。5メートルくらいのキャッチボールでもビビビビビってきていた」。ようやく投げられるようになった時は半年が経過していた。この怪我については後日、わかったことがある。「20年後に前腕部の検査でレントゲンを撮ったとき、整形の先生に『山本さんって前腕部を1回、疲労骨折してますね』と言われたんです。あの時、左肘を痛めたのではなかったんですよ」。

 その年はキャンプでトータル3000球くらい投げ込むなど、オーバーワーク気味だった。それほどの気迫で臨んだ結果、開幕1軍入りを果たしたが、その代償もあったわけだ。「あの時は肘が痛いとしか思わなかったんでね。結局は骨がくっついたから投げられるようになったんでしょうね。自然治癒で」。今では考えられないことが、当時はいろいろ起こっていた。これもその一例ということか。

5年目はOP戦開幕投手もKO…罰走に「一晩中走るのかと思った」

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