天才・鳥谷が「野球部を辞める」で大混乱 名球会打者誕生の夜明け前「相当とがってた」
比嘉寿光氏は早大2年から鳥谷敬氏と三遊間コンビ…4連覇に貢献した
早稲田大学野球部は東京六大学野球リーグ戦で2002年春秋、2003年春秋の4連覇を達成した。2003年秋は10戦全勝優勝も成し遂げた。いずれも部史上初の偉業だった。広島で編成部編成課長を務める比嘉寿光氏は当時の主力選手。大学4年時の2003年は主将も務めた。素晴らしい仲間とともに戦った日々は忘れることはない。そんな中、現在も含めて特に親しい関係にあるのが同級生の鳥谷敬氏(元阪神、ロッテ)だ。「東京生活の在り方も教えてもらった」という。
入学当初から比嘉氏は鳥谷氏とよく行動をともにした。グラウンドでは大学2年から三遊間コンビを組んだ。「最初、僕はショートを守っていました。高校時代にやっていたということでね。本当は鳥谷がショートだったんですけど、オープン戦で怪我したので、僕に回ってきた。でもスローイングには自信がなかったし、肘も痛めて1年の秋からはサードを練習するようになった。その頃には鳥谷の状態もよくなって彼がショート。2年からは2人で三遊間でした」。
そんな鳥谷氏とのことで、まず思い出すのが「東京の生活はこうなんだ、ここは沖縄じゃないんだぞ、みたいに、横でずーっと言ってもらったこと」という。「僕は時間にルーズなところがあったんです。練習時間にはちゃんと行くんですけど、それ以外の待ち合わせとかなると……。鳥谷がいつも部屋をノックして『こら、比嘉! 何時集合って言っただろ』って声をかけてくれた。ある時は『電車は待ってくれないんだよ』って先に行かれたこともありましたけどね」。
最初の頃、比嘉氏は東京生活に戸惑うことも多かったという。「沖縄では電車にも乗りませんでしたしね。それに、皆さん、歩くのが速いでしょ。何を急いでいるんだろうって、ずっと思っていましたから。ホント、鳥谷にはいろいろ指導してもらいました。都会で生きる厳しさを教えてもらった気がします」と振り返った。「鳥谷は酒も強かったですね。僕はそれには自信があったんですけど、負けましたから。こんなヤツがいるのかって思いました」。
鳥谷氏が野球部を辞めると言い出した1年夏…比嘉氏は必死に止めた
その一方で比嘉氏は鳥谷氏について「相当、とがっていましたよ、彼は。やんちゃとかじゃなくて、何かこう殺気だっているというか、先輩たちもあまり近寄れない感じのオーラがあった」と話す。「最初はみんなが怖いというくらい、人を受け入れない感じでした。何でも1人で全部やるというか……。僕からしたら、ちょっと冷めた感じにも見えましたけどね」。そして「1年の夏くらいに鳥谷が野球部を辞めるって言い出したこともあったんです」とも……。
「彼の頭の中にはプロしかなかったんで、“家の人にお金を出してもらって大学にいるのに、こんなチンタラやっているんだったら、社会人に行った方がいい”ってね。“まだ弟たちもいるし、俺も稼ぎながら野球をやった方がいい”とも言うんで『ちょっと、ちょっと待て、鳥。もうちょっとだけやろうよ』と引き留めたのを覚えています。部屋も隣で常に一緒にいたし、彼がいなくなったら寂しいと思いましたしね」。
その後、鳥谷氏は踏みとどまったが、比嘉氏は「僕の一言があったからではないと思いますよ」と話す。「彼は目標を変えたんじゃないですか。とりあえず、大学で抜きん出た数字を残そうってね。何かの本でも読みましたよ」と笑いながら“説明”したが、実際、鳥谷氏はさらに鍛錬し、自らをレベルアップさせ、大学3年春からのリーグ戦4連覇の立役者になった。プロでも2000安打など大活躍した高いレベルの同級生。今でも連絡し合う間柄であり、尊敬している。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)