「今思えば欲しかった」聖地の土 甲子園4度出場も…こっそり集めたスパイクの刃の“欠片
川又米利氏は早実で2年春夏、3年春夏の甲子園に出場した
元中日の川又米利氏(野球評論家)は早稲田実時代、2年春夏、3年春夏と4季連続で甲子園に出場した。ベスト8、ベスト8、2回戦敗退、1回戦敗退だったものの、貴重な経験になった。ただし、4回行っても甲子園の土は持ち帰らなかった。敗れた球児たちがかき集めている姿は当時もあったが「僕らの時のウチの学校はそういう習慣がなかった」。逆に早実グラウンドの土を甲子園にまいていたという。
調布リトル、調布シニアのいずれでも主力として日本一になった川又氏は早実に進学した。「調布から先輩も行っていたので、その流れもあった」。1年夏の東東京大会で「試合に出たり、出なかったりの外野手」として早くもベンチ入り。準決勝で日体荏原に1-2でサヨナラ負けし、涙が止まらなかったという。「1年だからまだ甲子園のチャンスが4回あるのに負けたことが悔しくて、悔しくて。こんなに泣けることがあるのってくらい泣きましたねぇ」。
それがバネになった。秋の東京大会は打倒・桜美林を目標にした。「その年の夏の甲子園で(西東京代表の)桜美林が優勝した。メンバーには2年生も多くいたからね」。早実も夏の段階から2年生が主力だったチームだけに「負けられない」との思いだった。勝ち進んで決勝で桜美林と対戦。3-1で勝った。さらに明治神宮大会でも優勝。川又氏が「5番・右翼」で出場した決勝の大田(島根)戦は13-5で快勝だった。
1977年の第49回選抜高校野球大会。早実は1回戦で瀬戸内(広島)を5-0、2回戦では育英(兵庫)を3-1で下したが、準々決勝で山口哲治投手(元近鉄、南海)を擁する智弁学園(奈良)に2-4で敗れた。「その年の選抜は試合にも出ましたけど、打ってなかったと思う。ただ、甲子園に出られたうれしさの方が強かった気がします」と記憶をたどった。ただ、負けても甲子園の土は持ち帰らなかった。2年の春だったが、必ず戻ってくるとの思いでそうしたのではない。
高1秋の神宮大会を制覇…2年春夏の甲子園は8強、秋の国体も優勝した
「僕らの時は持って帰るんじゃなくて、練馬にあった自分たちのグラウンドの土を甲子園にまくことになっていたんです。確か甲子園練習の時にまいたと思う。いつも通りのプレーができるようにという意味もあったんだと思います」。川又氏はその春から4季連続で甲子園の土を踏んだが、当然のごとく、すべての機会で持ち帰らず、まくだけだった。「でもスパイクの刃についていたヤツはしょうがないですよね」。それをこっそりかき集めていたそうだ。
高校2年時は、夏の東東京大会も制して甲子園に出場。初戦の2回戦で西東京代表・桜美林との東京対決になった。4-1で勝ったが「あれはきつかったなぁ。僕らもびっくりした。いきなり東京同士、えーってね」。前年秋の東京大会決勝の再現に複雑な思いになった。その後、早実は柳井商(山口)との3回戦には10-2で大勝したが、準々決勝では今治西(愛媛)に1-11で大敗。またもベスト8で涙をのんだ。
だが「また優勝したんだよね」と川又氏は笑顔で話す。青森での第32回あすなろ国体で早実は頂点に立った。夏の甲子園準優勝の東邦(愛知)に2回戦で4-3、決勝では夏優勝の東洋大姫路(兵庫)に5-2で勝った。「すごかったよね、東邦、東洋大姫路に勝っちゃったんだよ。あの時は東京から寝台に乗って青森まで行ったんだよねぇ」。この代の早実は春、夏の甲子園では優勝できなかったが、神宮大会と国体を制した。
2023年夏の甲子園では、コロナ感染対策から禁止されていた甲子園の土の持ち帰りが4年ぶりに解禁された。いつもの風景が戻ってきたが、川又氏にはその経験がない。「今思うと欲しかったよなぁってなるけどね」。
中日での19年間の現役時代には何度も甲子園でプレーしたが「1997年の現役最後の年、最後の甲子園での試合の時に土を持って帰ればよかったね。その時は思いつかなかったなぁ。やれば面白かったね。何やっているんですかってなっただろうけどね」と笑った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)