伝説の「10・8」決戦後にあったドラマ 選手が監督に“続投”直訴も…悪夢の転落劇
1994年の10・8決戦…「国民的行事」の開門は午前11時だった
あれで良かったのか、悪かったのか……。元中日の川又米利氏(野球評論家)は1992年から3シーズン、中日の選手会長を務めた。その間での一番の思い出は巨人・長嶋茂雄監督が「国民的行事」と呼んだ1994年10月8日、ナゴヤ球場での中日対巨人。勝った方が優勝の最終決戦だ。3-6で中日は敗れたが、退任が決まっていた高木守道監督は一転して続投となった。この件を振り返った時、川又氏はちょっぴり複雑な表情を見せた。
69勝60敗で同率1位に並んだ中日と巨人。ラスト130試合目の直接対決で優勝が決まる状況に日本中が注目した。球場には多くの人が早くから集まり、午後6時試合開始で、開門は異例の午前11時。「グラウンドに行ったら、外野がもう満員じゃんって思った。今までそんなことがなかったから、あれにはびっくりした」。
試合は巨人が2回に落合博満内野手のソロアーチなどで2点を先制したが、その裏、中日も巨人先発・槙原寛己投手から2点を奪って同点に追いつく。巨人は3回に1点勝ち越し、4回に村田真一捕手とコトー外野手のソロで2点。5回には松井秀喜外野手のソロ本塁打も飛び出して突き放した。その後中日は1点を返したが、及ばず3-6での敗戦。長嶋監督は槙原の後に斎藤雅樹投手、桑田真澄投手を投入。3本柱リレーで優勝をつかんだ。
川又氏は「2点取られて、すぐ2点取り返したけど、その後がねぇ……。飛び出したりとか、あり得ないことをこっちがやっていた。浮き足立ってはいなかったと思うけど、やはりどこかで先、先というか気持ちが前に出すぎていたというか……」と唇をかむ。自身も代打で出場して三振。「ああいう経験ができてすごいと思うけど、ただ、やっぱり勝ちたかった。何年たってもそれだけは思うね」と思い出しながら、悔しそうな表情を見せた。
試合後に高木監督に「もう1年やりましょう」…1年延びた星野監督の再任
試合後のことも忘れるわけがない。仁村徹内野手、彦野利勝外野手とともに選手会長の川又氏は監督室に行って高木監督に「このままじゃ終われないんで、監督、もう1年やりましょう」と訴えたことだ。1992年シーズンから高木氏は中日監督に就任。初年度は最下位で1993年は2位。1994年はシーズン序盤から巨人を走らせ、8月には高木監督のシーズン限りの退任、星野仙一氏の監督復帰がほぼ決まっていたが、そこから巻き返しての10・8だった。優勝こそ逃したが「こんな状態で監督がやめるのはどうだろうって思った」という。
「もちろん、僕らにそんなことを言う権利はないんですけどね。守道さんはもうやめるって決めていたわけですし……。僕らがオーナーに直接言ったわけでもないし……」と川又氏は言うが、結果的には高木監督は続投となった。「どこでどうオーナーの気持ちを変えたのかはよくわからない」というのは正直な感想ながら、川又氏らのアクションも後押ししたような格好にはなった。
だが、翌1995年の中日はシーズン当初から下位に低迷。高木監督は6月2日の阪神戦(甲子園)で審判への暴力行為で退場処分を受け、そのまま休養となった。「あれはつらかった。最後、守道さんは後を任せたって感じで帰っちゃったからね。もう1年勝負できたのが良かったのか悪かったのか、僕らは何とも言えないけど、選手が応えられなかったというのはあるからねぇ」と川又氏はうつむき加減に話した。
1995年の中日2軍スタッフは島野育夫監督、加藤安雄バッテリーコーチ、高畠康真打撃コーチら、当初は星野監督の下で1軍スタッフになる予定だったコーチ陣がズラリ。実際、1996年に星野体制になるわけだが、川又氏はその状況も踏まえた上で「(1995年から)星野さんに決まっていたのに守道さんを引き留めてしまって、星野さんたちにも悪いようなことをした気持ちもあるし……」とも。「国民的行事」後のドラマ。すべて結果論だが、当時、選手会長の立場だっただけに、どうしてもいろいろ考えてしまうようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)