プロに無欲も…名将が即決「すぐ獲れ」 「頑張れば下位」から半年で急転した野球人生

元オリックス・葛城育郎氏【写真:山口真司】
元オリックス・葛城育郎氏【写真:山口真司】

葛城育郎氏は立命大2年からレギュラー…4年で主将を務めた

 1999年、立命館大のキャプテンで主砲の葛城育郎外野手(現・株式会社葛城代表取締役、報徳学園コーチ)はドラフト2位でオリックスに入団した。当時は、大学、社会人のドラフト候補が希望する球団に入団できる逆指名制度(1球団につき2人まで)があり、それを活用した。4年春から流れが変わったという。「その前のキャンプではプロのスカウトの方に『頑張ればドラフト下位でかかるかもしれないよ』と言われていた」。そこから一気にブレークしたのだ。

 葛城氏は大学2年(1997年)春に一塁レギュラーとなり、関西学生野球リーグのベストナインに選出された。3年(1998年)になって外野手に転向。春は3番でライトを守り、ベストナインに選ばれた。しかし、立命大は春も秋も2位で優勝はいずれも近大。二岡智宏内野手(元巨人、日本ハム、現巨人2軍監督)や藤井彰人捕手(元近鉄、楽天、阪神、現広島ヘッドコーチ)らを擁する近大を倒すことはできなかった。

 二岡氏は1998年に巨人を逆指名して入団(ドラフト2位)。葛城氏は「やはり、ああいうレベルの人がプロに行くんだなと思った」という。その時点でプロはほぼ頭になかった。「3年の時に社会人野球に練習にいって、日本生命とか地元の三菱自動車水島から来てほしいという話にはなっていたので、どちらかに行くつもりでいました」。そんな進路のことよりも、最上級生シーズンでは何としても優勝したい。それが最優先事項だった。

「大学3年秋の最後の試合が終わってから、生徒も選手もチアリーダーも応援団も集まった中で『明日から俺がキャプテンやるからついて来いよ』と言ってワーッと盛り上がったのを覚えています。監督には、何を勝手に言っているんだって言われましたけどね」。それくらい燃えていた。その後、監督も認めてくれたという。プロはまだ考えられなかった。

「同級生の田中総司(元ダイエー投手)がドラフト候補で注目されていたので、伊予三島での大学のキャンプにもプロのスカウトの人が来ていた。そのスカウトから『君ももうちょっと頑張ったら、(ドラフト)下位でかかるかもしれないよ』って言われて『はい』と答えていましたけどね」。まだまだ現実的ではなかった。「親からも『プロを目指したら』と言われたけど『いや、俺なんかは無理。二岡さんとかのレベルじゃないんだから』と話していた」そうだ。

大学4年時は春秋リーグ戦を連覇…日米大学野球メンバーにも選ばれた

 それが変わったのは大学4年(1999年)の春に抜群の成績を残したからだ。主砲としてチームを優勝に導き、関西学生野球リーグMVPに輝いた。「打点、ホームランはトップで、打率は3位。あそこでパンと目立って、そこからですね」。日米大学野球のメンバーにも選出されるなど、スカウトの評価を急騰させた。オリックス・仰木彬監督は葛城氏のビデオを見て「すぐ獲れ」と指令したと言われる。下位指名どころか逆指名。自らプロへの道を切り開いたわけだ。

 葛城氏は当時を振り返りながら「最上級生になった時は練習メニューも僕と学生コーチでつくっていました。今日これしようか、あれしようか、何が足りなかったか、なんて考えながらやっていました」。その上、個人としての練習量も多かったという。「キャプテンになって、基本、僕は人にあれせえ、これせえとか言いたくなかった。自分がやる姿を見て、ついてきてくれってタイプだったんで……」。

 表情も意識した。「夜中に室内でマシンを打ったりしましたが、それは普通のこと。僕が必死になって疲れたって顔をするのも駄目かなと思った。どれだけ練習しても普通の顔をしてやらないといけないと思った。僕が当たり前にこれだけやっているんだったら、もっとしなければいけないヤツがいっぱいいるだろってことを示したかった。駄目だったとしても、あれだけやって駄目だったってことをわからせたかったんでね」。

 葛城氏はチームを引っ張ると同時に、自身もレベルアップし、数字や結果でもその存在を示し、逆指名でプロ入りする選手に成長した。立命大はその年、関西学生野球リーグを春秋制覇。「自分らは日本一という目標を掲げていたけど、大学選手権も神宮大会も負けた。それはできませんでしたけどね」と話したが、その功績は大きい。葛城氏は立命大の「伝説のキャプテン」と呼ばれている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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