新監督からまさかの“引退差し戻し” 「やめたかったんだけどな」延びた現役生活
正岡真二氏は体力の限界から1983年限りで現役引退を決意した
元中日内野手の正岡真二氏(現・名古屋北リトルリーグ総監督)はプロ16年目の1983年、現役引退を決意した。高い守備力が売りだったが「その頃はもう、思うように体が動けなくなっていたからね」。球団にもその意向は伝えていたそうだが、それがまさかのどんでん返しだ。1984年シーズンから中日を指揮する山内一弘氏の要望によって、異例の引退差し戻しで一転して現役続行。ユニホームを脱ぐのが1年延びたという。
近藤貞雄監督率いる中日は1982年にセ・リーグを制覇。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗れたが、前年リーグ5位からの大躍進だった。2年目の中尾孝義捕手が打率.282、18本塁打、47打点、正捕手としても16勝の都裕次郎投手らを好リードし、リーグMVP。首位打者こそ獲れなかったが、田尾安志外野手はリーグ2位の打率.350と活躍した。一方で長年チームを支えた星野仙一投手と木俣達彦捕手が引退したシーズンでもあった。
プロ15年目だった正岡氏は92試合の出場で13打数3安打1打点。「この時の優勝の思い出はあまりないな。酒を飲んで、騒いだのは覚えているけど……」。星野氏と木俣氏の引退を寂しく思うとともに、自らも衰えを徐々に感じ始めていた。「思うような動きができなくなってきた。自分の体のことはわかっているからね」。内野守備の達人にとって気になる状態が少しずつ増えていった。16年目の1983年はさらに顕著に出たという。
「目も悪くなってきたんだよ。昼間は見えるんだけど、ナイターが……。フライが上がった時もボヤーっと見えるんだよ。足も思うようなスタートができなくなったり……。そういうのが多くなったから自分で決めた。もうアカンなと。それでやめようとしたんだよ」。その年の正岡氏は23試合出場にとどまり、2打数無安打。肝心の守りでも戦力になれなくなってきた自分が歯がゆかったことだろう。もはや引き際と判断するしかなかった。
1984年に監督就任の山内一弘氏が現役続行を熱望…守備力が評価された
それがひっくり返った。セ・リーグ連覇が期待された1983年の中日は最下位のヤクルトと0.5ゲーム差の5位。近藤貞雄監督は辞任し、山内氏の監督就任が決まった。新監督は愛知県一宮市出身。現役時代は毎日(現在のロッテ)などで活躍し、本塁打王2回、首位打者1回、打点王4回の打撃職人だった。引退後は熱心な指導が有名で、1979年から1981年にはロッテ監督を務めた。その山内氏が正岡氏の引退に“待った”をかけた。
「確か、球団の人に言われたんだったかなぁ、山内さんが『もう1年、おってくれんかって言っている』って」。正岡氏の守備力を評価した新監督からのお願いだけに断れなかった。「俺は本当にもう現役をやめたかったんだけどな」。渋々了承した形だった。しかし、やはり無理だった。もう1回鍛え直してやろうと思っても、体は言うことを聞かなかった。「あの時は、前みたいに気持ちもあまり入ってなかったような気がする」。1984年シーズンを終えて引退となった。
現役ラストのプロ17年目は50試合に出場して3打数無安打、2盗塁。「守備も低く行くと足が崩れるような感じだった。もうアカンなって本当に思ったし、他の選手にも迷惑をかけるからね……」。1984年10月5日の阪神戦。敵地・甲子園でのシーズン最終戦に正岡氏は守備ではなく代走で出場し、現役生活を終えたが「全然覚えていない」という。
その試合は7-6で中日が逆転勝利を飾った。クローザーの牛島和彦投手が締めてセーブを挙げ、7回途中から登板して1回2/3を無失点のルーキー・仁村徹投手がプロ初登板初勝利。その後、打者に転向し、大活躍する仁村氏の唯一の登板試合でもあったが、それについても正岡氏は「覚えてないなぁ……。俺自身は現役をやり切った感はあったけどね」と苦笑した。
通算成績は1188試合、打率.219、2本塁打、59打点、35盗塁。「そういう成績で17年間も本当にようやらせてくれたなぁと思う。ホント、よう面倒見てくれたよね。そんな選手ってあまりいないんじゃないか」と正岡氏はしみじみ。ミスが許されない内野守備のスペシャリストとして過ごした日々。それはハンパではないプレッシャーとの闘いの日々でもあった。「終わった時は、反対にホッとしたんじゃなかったかな」と話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)