「投げた瞬間あっ」骨折が生んだ“伝説の魔球” すっぽ抜けのはずが…自分も驚く軌道

元中日・今中慎二氏【写真:山口真司】
元中日・今中慎二氏【写真:山口真司】

今中慎二氏は1992年に左手を骨折…リハビリ中にカーブを進化させた

 まさに“怪我の功名”だった。元中日左腕で野球評論家の今中慎二氏はプロ4年目の1992年、4月19日の巨人戦(ナゴヤ球場)でゴロの打球を左手首に当てて負傷した。左手の豆状骨骨折で長期離脱となったが、これが結果的に今中氏の武器であるカーブの進化をもたらした。リハビリ期間中の遠投キャッチボールでカーブは痛みを感じずに投げられたことから、意図せずに磨きがかかった。故障前より曲がりが大きくなり、コントロールもよくなったのだ。

 高木守道氏が中日監督に就任した1992年シーズン、今中氏は好スタートを切っていた。開幕2戦目(4月5日、大洋戦=ナゴヤ球場)に先発して4失点完投で1勝目。4月12日の阪神戦(甲子園)には2安打完封で2勝目。負傷した4月19日の巨人戦も7回1失点投球で3勝目をマークしていた。7回に巨人・藤田浩雅捕手の打球がワンバウンドで左手首に当たった時も痛みは感じていなかった。後になって痛みが出てきたが、骨折→手術は想定外だった。

 1軍に復帰したのは8月半ば。そこまで時間を要したが、戻った来た時にはそれまでとはひと味違う“投手・今中”になっていた。カーブがバージョンアップされていた。8月17日の阪神戦(ナゴヤ球場)に6回途中から4番手で登板。延長11回までの6イニングを1失点に抑えて、故障した試合以来の4勝目を挙げた。その試合で阪神・和田豊内野手を落差の大きいカーブで見逃し三振。これで手応えをつかんだ。

「あの時は俺も高めにすっぽ抜けたと思った。投げた瞬間“あっ”てね、それがストライクになった。和田さんもびっくりしただろうけど、俺もびっくり。でも和田さんが見逃すなら使えるやろって思った。三振をとるのが大変なバッターですからね」。故障前より曲がり幅が大きくなった上にコントロールがよくなった。カーブでいつでもストライクをとれる自信がつき、ストレートを投げる時よりも腕を振っていた。それで打者を翻弄した。

 カーブは球速も自在。「110キロ台、100キロ台、90キロ台。スピード差で球種が増えるわけですからね。80キロのカーブは1試合に何球も投げてませんけどね」。これに140キロ台後半のズバッと来るストレートにフォークボールも織り交ぜるのだから、打者にとっては何とも厄介な投手だったはずだ。なにしろ60キロ差の緩急なんてこともあったのだから……。

カーブによる遠投が曲がり幅を大きくした

 このようにカーブを進化させたのが、故障リハビリ中の遠投キャッチボールだった。「リハビリで『投げていいよ』『キャッチボールをしていいよ』って言われたけど、まだ痛かったんですよ。気になって投げられなかった。でもカーブは投げられたんです。室内(練習場)とかで端から端まで40メートルくらいかな。肩を作り直さなければいけないから、カーブを投げていただけだったんですけどね」。

 腕を振ってカーブを投げた。「そうしないと届かないって感じでしょ。40メートルをカーブで届かそうとするから、腕を振るっていう意識が出るんで、それが良かったんじゃないですかね」。ブルペンで投げるようになった時、カーブの曲がり幅が以前より大きくなっていることに気付いたという。「あれっ、こんなの投げていたっけってね。ブルペンで受けた人も、あれってなっていましたから」。2軍の試合で投げてみた。よく曲がるカーブは打たれなかったそうだ。

 そして1軍に復帰し、阪神・和田を見逃し三振。加えて「いつだったか忘れましたけど、広島市民球場の広島戦で同点の9回裏、1死満塁でバッターがブラウン。その前の打席で同点ホームランを打たれていた。で、3ボール1ストライクになってキャッチャーのサインは真っ直ぐ。それに首を振った。ここはカーブしかないって、ど真ん中に投げたら飛びついて打ってきて、ピッチャーゴロでダブルプレー。それもね」と今中氏は言う。

「なお一層、自信がつくよって話。だってボールだったら押し出しで負けじゃないですか。それをキャッチャーの要求じゃなくて自分が選択したボールで抑えた。あれでカーブはいつでもいけるなっていうのが確信に変わったと思いますね」。怪我からの復帰以降、今中氏の投球スタイルは確立されていった。この4年目は4か月ほど離脱しながら、8勝2敗、防御率1.77の成績を残した。「伝説の左腕・今中」はここからさらに凄みを増していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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