入団拒否のはずが…用意されていた会見の席 ミスターに“騙され”始まった巨人生活

元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】
元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】

長嶋茂雄の“口説き文句”「松本君、君を欲しいんだ」

 第1次長嶋茂雄監督時代にプロデビュー。「青い稲妻」のニックネームで盗塁を決めるさっそうとした姿に、プロ野球ファンの胸は躍った。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。それを大きく上回るセ・リーグ最多盗塁記録76個(1983年)を保持する元巨人・松本匡史氏が、野球人生を振り返る。

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 報徳学園高で甲子園出場を果たした松本氏は、早大に進学すると三塁手のレギュラーをつかみ、東京六大学リーグ盗塁記録を樹立した。だが、2年秋のリーグ戦中に左肩脱臼の大怪我。その後も脱臼癖に悩まされた。リーグ通算57盗塁の俊足が評価され、1976年に初優勝を果たした「長嶋・巨人」にドラフトで強行指名されたものの、プロ入りは断念。社会人野球の日本生命に進む決意を固めた。

 松本氏は、石山建一監督の指示で巨人スカウトに面会しなかった。さらに念を押された。「長嶋監督が会いたいとおっしゃっているそうだが、丁重にお断りしてきなさい」。東京都内のホテルへ、辞退を直接伝えに出向くことになった。

 野球人の憧れの長嶋茂雄が目の前にいる。本物を見た瞬間、松本氏は体が硬直した。イメージ通りのオーラを発する長嶋監督は、開口一番こう言った。

「今後、人工芝のグラウンドで力を発揮するのは俊足選手だ。松本君、僕は君が欲しい!」

 当時の巨人の本拠地・後楽園球場は、1976年から人工芝を敷設した。天然芝に比べ、人工芝のほうが球足は速くなる。打球も弾む。本塁打の「空中戦」に加え、「地上戦」の様相を呈してきた。巨人は同年の日本シリーズで阪急(現・オリックス)に敗れたが、MVPは俊足・福本豊であった。

「しかし、長嶋監督……。私はきょう、お断りにうかがったのです。これで失礼いたします。肩が治ったら、改めてプロを目指しますので……」

「プロを目指すなら遠回りの必要はないんじゃないかな。それはそうと、帰る前に少し巨人の球団事務所にでも寄ってみないか」

 しかし……。そこには、なぜか華やかな入団発表の席がしつらえられていた。そこから松本氏は夢うつつ。記者に問われてプロ入りの意気込みを話したかもしれないが、何も憶えていない。

 そうしたいきさつはあったが、この時、長嶋監督に導かれて巨人入りをしていなければ、その後の“青い稲妻”としての活躍もなかった。「指名をしてくれた巨人にも、プロ入りを許してくれた日本生命にも、感謝しかありません」と松本氏は語る。

賛否両論だった「9回2死1点ビハインドからの二盗」がプロ初盗塁

 松本氏の記念すべきプロ初盗塁は、1年目の4月19日の阪神戦(甲子園)。1点ビハインドの9回2死。代走で出場し、二盗を決めた。捕手は強肩・田淵幸一。かつて中学時代に「田淵2世」と呼ばれた松本氏が、本家からマークしたプロ初盗塁だった。

 山本功児のタイムリーヒットで松本氏が生還。巨人は土壇場で同点に追いつき、延長戦で勝利した。しかし、「9回2死からの二盗」という、当時としてはセオリー外の大胆な采配には賛否両論が渦巻いた。松本氏は述懐する。

「長嶋監督は『カンピュータ』と表現されることもありますが、データをたくさん持っていました。その中で、どうやって1点をもぎ取るか。データに基づいた野球勘であり、采配だったのです」

 まさしく、スピード感あふれる攻撃をめざした「長嶋野球」の象徴が松本氏だったのだ。

 だが、その1年目にまたもや左肩を脱臼。さらにプロ3年目の1979年春の教育リーグ、当時守っていた二塁でノックの打球にグラブを伸ばしたときにも左肩が外れた。「それまでの脱臼はバットスイングのときだっただけに、ショックでした」。結局、いつ爆発するか分からない「爆弾」の除去手術に踏み切った。

 腰骨から取った骨の小片で、肩関節が抜ける方向に対して壁を作る。野球選手としては前例のない大手術だった。腰骨を削っただけに、最初は歩けず、歩行器を使用しての歩行訓練から始めた。患部の左肩を1か月間固定し、ギプスを外したときには左腕が体にくっ付いて動かなかった。「野球が本当にできる体に戻るのか、不安でならなかったですね……」。

 リハビリを続け、9月にやっと動けるようになった。当然、1979年のシーズンは棒に振った。そして晩秋、伝説の「地獄の伊東キャンプ」に突入するのである。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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