長嶋監督の目に涙「命まで取られないだろ!」 試合後に呼び出し…響いたホテルでの一喝
自信喪失から始まったプロ1年目…“レギュラー”で新人王獲得した角盈男氏
1981年に20セーブを挙げて最優秀救援のタイトルに輝くなど、角盈男氏は1980年代の巨人の守護神として活躍した。球団史上最多タイの93セーブ、さらに日本ハム、ヤクルトも含め通算618試合に登板。「変則左腕」のパイオニア的存在が、野球人生を振り返る。
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野球アニメ「巨人の星」が少年時代のバイブルだった角氏は、都市対抗野球での快投がスカウトの目に留まり、現実に長嶋茂雄監督率いる巨人入りを果たした。しかし、いきなり“洗礼”を浴びた。
「同じ左腕。ブルペンで並んで投げると、プロでやっていく自信をつかむどころか、逆に自信を喪失しました」
新浦寿夫である。角氏がプロ入り1年目の1978年、先発・抑えの「二刀流」で63試合(リーグ1位)189イニングに登板。15勝15セーブ(リーグ1位)、防御率2.81(リーグ1位)という凄まじい成績を残している。とはいうものの、同年の角氏は60試合112回2/3を投げ、5勝7敗7セーブ、防御率2.87の成績で、見事新人王に輝いた。
「当時はシーズン130試合制。60試合に投げる投手は数少なかったんです」。角氏は先発でも6試合に登板しているが、単純計算で1試合約2イニングは投げており、救援で4イニング投げたときもあった。
「投手なのに『毎試合のように試合に出る新浦と角はレギュラーだ』と周囲に言われました」。投手コーチの登板指令に従って、183センチの上背から無我夢中で腕を振った。
「小林→角→小林」のリレー…長嶋継投がプロ1番の思い出
「僕にとってプロで最も思い出深かった試合は、1年目の阪神戦(甲子園)です」。5回無死一、二塁で、エース・小林繁に変わって角氏が登板。2番・藤田平、3番・掛布雅之と左打者を連続三振に打ち取ると、右翼を守っていた小林が再登板した。4番・田淵幸一を抑えて、巨人が勝利した。
「小林→角→小林」の継投は、「高校野球ではないのだから」との意見もあり、賛否両論だった。もし角氏が打たれていたら、長嶋采配は批判を浴びていたに違いない。角氏は胸を張った。
「長嶋采配をアシストして、自らの名前を全国に知らしめた印象深い試合です」
角氏には、現役生活でもう1つ忘れられない試合がある。翌1979年8月1日の広島戦(広島)だ。当時の広島は、ジム・ライトル、エイドリアン・ギャレットの左打ちの助っ人が、山本浩二、衣笠祥雄、水谷実雄ら右のスラッガーを挟む重量打線だった。
「その試合での、西本聖と僕のストライクを取れない投球が、長嶋監督の目に不甲斐なく映ったのでしょう」。2人は試合後、宿舎のホテルの監督の部屋に呼ばれた。
「お前ら、打たれるのが怖いのか! 打たれたって命まで取られるわけじゃないだろう!」
“魂”を何度も注入された。「長嶋監督の目には、うっすらと涙が浮かんでいました」。それだけ角氏も西本も愛されていた。期待されていなかったら、叱られるわけがない。
西本には長嶋監督の「怖がり」という言葉が心に響いた。角氏は「僕には『逃げている』という言葉が胸に鋭く突き刺さりました」という。
(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)