戦力外に安心も「俺が許さない」 中島宏之の喝も消えた情熱…元プロ隠した離島生活
西武&日本ハムでプレーした松坂健太氏は現在、軟式野球で活躍している
かつて西武、日本ハムでプレーした松坂健太氏は4年目の2007年、バックスクリーンに突き刺さる本塁打で鮮烈な1軍デビューを果たした。しかし、7年目を終えた2010年オフに戦力外となり、翌2011年に日本ハムに加入もオフに2度目の戦力外通告を受けた。この年限りで現役引退すると、一時は野球から距離を置いて元プロであることも隠した。だが、軟式野球に魅せられて一念発起。香川県で活動する軟式野球チーム「B.P.FUSION」で、野球人としての輝きを取り戻している。
松坂氏は強肩強打の外野手として、2003年ドラフト5巡目で東海大仰星(大阪)から西武に入団。1年目から1軍春季キャンプに参加した。4年目の2007年に開幕1軍入りを果たすと、2008年は左翼手として開幕スタメンを勝ち取り、自己最多の55試合に出場。だが、レギュラーに定着できなかった。「(西武での)7年間、自分にしか感じられない色々なプレッシャーがありました。他の人には分からないと思うほどのものでしたね。戦力外通告に正直、ホッとしたんです。トライアウトも受験しない方向でした」と当時の心境を明かす。
しかし、攻守の要だった中島宏之内野手(中日)から止められた。1年目の春季キャンプで同部屋になって以降、球団寮でも頻繁に会話し、松坂氏が2軍でくすぶっているときにもよく連絡をもらっていた。「どこかから僕が(トライアウトに)エントリーしないことを聞いて、連絡をくださったんです。『俺が許さない』と言われました」。憧れである中島の言葉を受けて、すぐに練習を再開した。
だが、練習施設へ向かう足が重たかった。「もうとにかく(西武第二)球場に行くのも嫌で。恥ずかしいっていうか。ファンとか現役を続けられる選手たちにもう顔を合わせられないというか……。みんなが帰ったあとに行って、夜に室内練習場でやっていました」。一度なくしてしまった野球への情熱はなかなか取り戻せず、日本ハム退団後にあった社会人からの誘いも断った。
衝撃受けた軟式「新たな野球と巡り会った」
引退してからは、沖縄県内のリゾート施設に就職。日本ハムのキャンプ地近郊ではあったが、「元プロ野球選手の看板を隠して生活していました」という。観光客のもてなし、レジャー用具の貸し出しや手入れなどの業務を任されて4年半ほど働いた。その後、初めての育児をきっかけに転職を検討していた時に、西武時代の縁でスポーツ用品会社「アルペン」を紹介され、香川県の「スポーツDEPO高松伏石店」に野球アドバイザーとして配属された。すると、1人の男性客から軟式野球チームへ度々誘われるようになった。
「勧誘が熱烈でしたし、香川に来て1年、現役から5年が経つし、ちょっとやってみようかなと思ったんです。(練習場に)行ってみたら、彼らは本気で軟式野球をやっていて、その中に入ってみたら、うまくいかなかったんですよ。少年野球のやり始めから硬式だったので、新たな野球と巡り会ったというか。野球にはある程度の自信があったんですが、軟式ボールは硬式ボールと全然違って、すごく魅力を感じたんです」
眠っていた闘争心が目を覚ました。2021年には前身の3チームを合体させた軟式野球チーム「B.P.FUSION」を結成し、主将に就任。硬式野球を遥かに凌ぐ競技人口を誇る軟式野球界の頂点をかけて争う「プライドジャパン甲子園大会」に出場し、全国制覇に燃えていた。甲子園球場で1日に行われた準決勝で弘光舎(岐阜)に1-4で敗れたが、同大会2年連続4強入りを果たした。
「元プロ野球選手が必死になれば、軟式だってかっこいいと思うんです。ボールは違いますけど、プロでは中島さんと一緒に1軍でやりたくて練習したし、初ホームランも、3打席連続で打てていなかったけど中島さんにアドバイスされて、その通りにしたらバックスクリーンへ飛んでいきました。41歳になっても現役にこだわる姿に、何度も、やっぱりかっこいいなと思わされています。僕もチーム最年長なんですが、一生懸命やって、中島さんのように後輩や相手チームの人に何かを感じてもらえたらいいなって思います」
競争熾烈なプロの世界で一度は疲弊した。だが、野球にはいろんな形がある。38歳の松坂氏は、軟式日本一への険しい道を突き進む。
(喜岡桜 / Sakura Kioka)