銃撃で命を落とした“サモアの怪人” 「いい男だった」試合中にビール飲んだ豪傑助っ人

日本ハム・大沢啓二監督(左)とトニー・ソレイタ【写真:共同通信社】
日本ハム・大沢啓二監督(左)とトニー・ソレイタ【写真:共同通信社】

ソレイタは1980年から4年間で通算155HR、試合中にビールを飲んでいたという

 現役時代、走攻守で活躍した野球評論家の柏原純一氏はプロ10年目の1980年シーズン、日本ハムで主に4番を務め、キャリアハイの34本塁打、96打点をマークした。1978年に南海から移籍して以降、打棒は年々進化。すっかりチームの「顔」的な存在にもなったが、実は打順に関しては「3番が一番好きだった」という。それが4番になったのは、この年から加入の「サモアの怪人」ことトニー・ソレイタ内野手が関係していた。

 ソレイタは1980年から1983年まで4シーズン、日本ハムに在籍した。左の大砲でその間、4年連続で30本塁打以上を記録し、通算155発。1980年は打率こそ.239ながら、45本塁打、95打点。1981年は44本塁打、108打点でリーグ2冠に輝き、打率も.300と大活躍して日本ハム優勝に貢献した。だが「4番」には難色を示したという。1980年も1981年も「4番」を務めた時期もあったのだが、最終的にはその座を柏原氏に明け渡した。

「ソレイタが『4番は嫌、5番がいい』って言ってねぇ。それで僕が4番を打つことにもなったんだけどね。でも何で嫌だったんだろうね」と柏原氏は首を傾げた。「僕は3番の方がよかったんだけどね。3番だったら、例えば初回に2アウトになっても、ヒットで出て盗塁でセカンドに行って、ヒットで還ってくるイメージ。僕は走れる3番をアピールしたかったからね。でもソレイタがそう言ったからしょうがなかったんだけどね」。

 そんなソレイタと柏原氏はよく飲みにも行ったという。「新地に行って『ウイスキーを飲め』って言ったら『飲まない』って言うんだよ。『何で』って聞いたら『ハイスクールの時に飲んでおかしくなって大喧嘩したから』って。『だからビールしか飲まない』って言っていた。そういえば、DHの時は試合中もビールを飲んでいたんだよ。俺らが守っている時にね」。3番クルーズ、4番柏原、5番ソレイタは当時の日本ハムの看板クリーンアップだった。

野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】
野球評論家の柏原純一氏【写真:山口真司】

1990年に故郷のサモアで銃で撃たれて亡くなった

 柏原氏は1980年にキャリアハイの34本塁打、96打点をマークしたが「最初は全然よくなかった。打てなかったことを記憶している」と話したように、4月は打率.200でホームランも2本。そこから数字を伸ばしていった。5月には月間10発、8月も月間9発と固め打ち。「10発打ったとか、そういうのは覚えていないなぁ」と話したが、この結果には、相手バッテリーが大警戒する大砲・ソレイタが後ろにデンと控えていたことも無関係ではないだろう。

 ソレイタ氏は1983年シーズン限りで日本ハムを退団して現役を引退。その後、故郷のサモアに戻っていたが、1990年に土地取引トラブルに巻き込まれて、銃で撃たれて亡くなった。「いい男だったなぁ、あいつ」と柏原氏は寂しそうにつぶやいた。1980年4月20日の南海とのダブルヘッダー第2試合(大阪球場)でソレイタは4打数4本塁打10打点と大爆発した。それからわずか10年後の悲劇だった。

 南海から移籍する際は師匠・野村克也氏と同じロッテ入りを希望して、日本ハム行きを渋った柏原氏だが、結果的には、いい球団に入ったと思えるようになった。もちろん、ソレイタ氏との出会いも忘れられない……。1980年から1984年まで5年連続全試合(130試合)に出場した柏原氏は、気がつけば、日本ハムナインを引っ張る立場にもなっていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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