中日を「離れたくない」 予感通りに“恩人”から直電…勃発した西武との争奪戦

元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】
元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】

大石友好氏は1995年に中日から西武コーチへ…東尾修氏から要請を受けた

 どんでん返しだった。1991年シーズン限りで現役を引退した元西武、中日捕手の大石友好氏は1992年から1994年まで中日で指導者を務めた。1軍バッテリーコーチ補佐を1年、その後の2年は2軍バッテリーコーチ。1994年は“米国留学”も経験させてもらい、1995年からは1軍バッテリーコーチになることが発表されていた。ところが急転、退団となった。理由は1本の電話。「かかってくるのでは」と思っていたという。

 1992年シーズン、中日監督には高木守道氏が就任した。強肩捕手として活躍し、1991年に12年間の現役生活に終止符を打った大石氏は1軍バッテリーコーチ補佐となり、指導者生活をスタートさせた。「初めてのコーチだし、最初は何をしていいのかもわからなかった。1軍は技術を教えるんじゃなくて、いいコンディションでいくかが大事。そういうのもわかっていなかった。最初が1軍というのはきつかったですね」。結果は最下位だった。

 1993年に2軍バッテリーコーチとなり、若手育成に力を注いだ。1994年は肩書きは前年と同じながら、米国でコーチ業を学んだ。「野口(茂樹投手)と佐々木(健一投手)を連れて、アリゾナのロッキーズのキャンプに参加して、1Aのカリフォルニアリーグに行きました。自炊しなければいけなかったし、大変だったけど、アメリカのシステムというのがわかったし、楽しかったですよ」。

 1A「セントラルバレー・ロッキーズ」での日々は勉強になったという。「野口は成績を残して、ロッキーズから欲しいって言われていましたよ。7月に僕は2人を残して先に日本へ戻ったんですけど、その後、野口も帰ってこいと言われて、その年(8月に)1軍でも投げましたよね」。1994年は勝った方がリーグ優勝の中日対巨人の“10・8決戦”があったが、経験を積んだ大石氏は1995年シーズンから1軍バッテリーコーチになることが決まった。

「最初は星野(仙一)さんが(1995年から)監督になるんじゃないかと言われていましたけど、10・8もあって守道さんがもう1年やることになった。で、沖縄秋季キャンプ前だったかな、来季のスタッフが発表されたんです。そこにも大石は1軍バッテリーコーチとなっていました」。11月の秋季キャンプにも1軍バッテリーコーチとして参加した。大石氏の指導者人生の流れが変わったのは、そのキャンプ中だった。

東尾修氏から「中日をやめて、西武に帰って来い」

「沖縄で夜、食事をしていたら、テレビで石毛(宏典)が西武の監督を辞退して、東尾(修)監督に決まったって出たんです。びっくりしましたよ」。西武でプロ生活をスタートさせた大石氏にとって東尾氏は恩人であり、師匠。「これは電話がかかってくるんじゃないかって思っていたら、次の日に東尾さんからかかってきたんです。『中日をやめて、西武に帰って来い』って。『もう来年が決まっているからいけないです』と言ったら『まだ契約はしていないんだろ』ってね」。

 他ならぬ東尾氏からの要請だけに大石氏は「これは参ったなと思いました」と明かす。「中日の球団フロントに相談したし、守道さんのところにも行きました。僕の手ではどうしようもできないので、球団同士で話をしてもらって、西武に戻ることになったんです。12月に決まりました。本当は名古屋にいたかったんですけどね。守道さんにも(球団社長の)中山(了)さんにもお世話になっていたので申し訳ないなと思いました」。

 1985年のキャンプ前の田尾安志外野手との交換トレードで、杉本正投手とともに移籍した中日には現役、コーチ時代を含めて10年間在籍した。選手として西武を離れる時はとてもつらかったが、気がつけば中日に愛着を持つようになった。「選手も仲間もいい奴ばかりだったし、あの時は中日を離れたくないって思いましたよ」。星野仙一監督に「抑え捕手」というポジションを与えてもらい、リーグ優勝も経験できたし、中日には今なお感謝の気持ちでいっぱいだ。

 大石氏はその後、西武、ダイエー・ソフトバンク、楽天でコーチを務めた。「2001年に、東尾監督に頼んで(当時プロ5年目の)和田(一浩)を(8番捕手で)開幕スタメンにしたんですが、1試合終わったところで和田が熱を出してしまって……。彼も頑張っていたんですけどね」。その年の和田は捕手を続けながらも、打力を生かしての外野やDH起用が多かった。2002年からは外野手登録になり、活躍。2007年オフにFAで中日に移籍して2015年には2000安打も達成した。

 大石氏は「あの時に風邪をひいて、逆に和田にはよかったのかもしれませんね。ずっとキャッチャーをやっていたら、2000本とか、ああいうふうにはなれなかったんじゃないですかねぇ。まぁ、僕がキャッチャーとして育てられなかったんですけどね。それも思い出ですね」としみじみと話した。

中日・立浪和義監督【写真:荒川祐史】
中日・立浪和義監督【写真:荒川祐史】

中日で注目する石橋康太「良くなっていきそうな感じ」

 ここまでの野球人生を振り返れば、人との出会い、人とのつながりの大事さも改めて感じ取っているという。2002年にダイエー入りする時は王貞治監督からも電話をもらったそうで「うれしかったですね」。楽天には星野監督との中日時代の縁、田淵幸一ヘッドコーチとの西武時代の縁もあって2012年シーズンから2軍コーチとして加入。「呼んでいただいて、ユニホームを着させていただいてありがたい気持ちでした」とここでも感謝の言葉を口にした。

 2018年シーズン限りで楽天を退団してからは学生野球資格を回復し、アマチュアの指導などに意欲的に取り組んでいる。「頼まれたら、行くようにしています。大学生、高校生の主にキャッチャーを見ていますが、成長していくのが早いというか、楽しみが多いですし、やりがいがありますよ」とにっこりだ。

 現役時代が一番長かった古巣・中日のことは「もちろん、気になっていますよ」と言う。立浪和義監督はかわいい後輩。「ちょっと今の結果では寂しいというのがありますよね。僕が偉そうなことは言えませんが、自分で何でもやりすぎた部分があったのかもしれませんね。コーチに任せるところは任す。コーチをうまく使うことも大事なんじゃないでしょうか」と心配そうに話した。

 やはり、どうしても捕手を見てしまうという。「石橋(康太)は、うまく使えばよくなっていきそうな感じがしますね。バッティングもいいし、体も強そうですしね」と2024年シーズンがプロ6年目となる23歳の若手捕手の名前を挙げた。そして「立浪監督はあれだけやってきた男ですから(巻き返しも)できないことはないと思いますよ。頑張ってほしいです」。熱い口調で期待を込めた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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